第1700回投稿記念

これで1700記事目になります。ブログ創設から1700回目の投稿ということで「第1700回投稿記念」です。

前回の第1600回投稿記念は、2019年10月10日だったので、前回からの100記事は、3ヶ月弱かけて投稿したという感じです。年末の空き時間の影響もありますが、「笑う月」によってスピードが高まったという感じです。あと少し書庫の植物も増やしたことが若干影響しているでしょう。

さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。

また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度のことながらたくさんの気づきがありました。

投稿のみならず、何かしら「さあやるぞ」という瞬間以外は、PC、タブレットなど機器の電源を切ったりする習慣ができたので、ご連絡が遅くなることもありましたがご容赦下さい(今後も若干のタイムラグが生まれると思います)。

それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。

アクセス状況

前回の2019年10月10日から2020年1月5日までの間のユーザーさんの数は、80,830名であり、前期間(同一日数)は、74,518名なので、比較すると8.47%の増加という感じのようでした。

ただ、毎年のように年末年始はアクセスがガタンと落ちるので、今回の数値はあまり参考にはならないかもしれません。

男女比は男性48.58%、女性51.42%と今回も若干女性ユーザーさんが多いようです。

モバイルからのアクセスは77.12%でした。

日本以外からのアクセスは、やはりアメリカがダントツですが、それ以外としては順に、オーストラリア、カナダといった感じで前回同様英語圏に偏る感じになりました。

サイト内検索

さて、毎度おなじみサイト内検索です。今回は、1052ワードでした。

今回はあまり特記するようなものがないため、とりあえずは検索回数が多かったものをご紹介しましょう。

  • 孤独
  • 同調
  • 洗脳
  • 言葉
  • ギムキョ
  • 変人
  • 思考

さて、それでは投稿記念の回としていつもと違った感じで進めていきましょう。

親の背中と社会の中での判断や決断

年末年始というタイミングから、特別的な投稿が続いていたので、何に触れるかというところで、ポンとお話が出てこない感じですが、先日触れた帰省中の友人についてでも触れておきましょう。

先日、友人が会社を退職したということ言ってきました。

そこで、気になるのは退職理由ですが、基本となるのは、「冗談が通じないような真面目すぎるノリと、納得のいかないローカルルール」ということのようでした。

そんな中、決め手は「なりたくない大人像」という感じのようでした。

業界最大手の大企業になりますが、このまま現状の延長で居続けていても、最高で「小学生の時から思っている、『なりたくない大人』」であり、ほとんどの確率で、「そんな大人に媚び諂う大人」の方になる、という感じのようでした。

がむしゃらに頑張ったとしても、最高にうまくいった場合で「なりたくなかった大人」であり、全うに行けば、それにすらなれないということなので、いわば「夢を追うような気力が起こらない」という感じのようでした。

ということで退職です。

まあ、そんな退職理由は普通といえば普通ですが、彼も親御さんが事業主という家庭に育っているので、何となく先日の「飛ぶ人間を知ったことによる、心のゆがみ」で触れていた、父への思いと同じような感じがしたりしました。

端的には、親の背中の影響ということになりますが、「何をカッコいいと思うか」という点について、「そんな環境に耐え忍びながら育ててくれたこと」に感謝の念が起こるのか、「そんな環境に啖呵を切って突破しながら育ててくれたこと」に感謝の念が起こるのかという点が、社会における意志決定の判断基準になっているような気がした、という感じです。

意志決定の大半は親に代表される身近な保護者の無意識部分からの影響であり、判断や決断の基準もほとんどそのような部分から出来上がっているというようなことが囁かれたりします。

ということなので、「嫌なことでも自分のために我慢して耐え忍びながら」をカッコいいと思うか、「嫌なことがあったとき、自分のためにと、恐くても立ち向かっていってくれた」ということをカッコいいと思うか、というところが枝分かれポイントとなるような気がします。

もちろん両者が混在している場合がほとんどですが、「どちら寄りか?」というところが、意志決定に大きな影響を与えているような気がしました。

まあそんな感じで「類は友を呼ぶ」ということになるので、20年以上友達なのでしょう。

相も変わらずカルト宗教と検索順位争いに

毎度のことながら相も変わらず、一部ページについてはカルト宗教と検索順位争いになっているようです。それら宗教団体も信者獲得というか彼らなりの布教のためにと必死でページや動画を作っているのでしょう。仏教用語のみならず、西洋哲学系のものですらその対象になっているようで、「おいおい…」と思ったりもしています。

ただ、近年の傾向として人の集まり方が集中しているからか、動画共有サイト系の方でそうした活動が活発化しているようです。

個人的にはそうしたサイトの動画コンテンツを観るよりも映画DVDを観ている方が良い時間を過ごせると思っているのであまり利用はしませんが、少しだけ危惧した点があったので一応触れておきます。

宗教団体による動画の危険性

90年代に世間を騒がせた破壊的カルト宗教、というよりもテロ宗教においては、マスコミに流した動画にサブリミナルを組み込んでいました。

ということはその後継団体ならば当然にそれら手法を使っている可能性があります。また、かつてそのような手法が取られていたことを別の団体も知っているはずです。なので、規制などかかりようがない動画共有サイトではガンガンにそれをやっている可能性があるということを念頭に置いておくべきではないかと思っています。

これは、無料ものだからと何の気なしに見ているつもりでも、意識のブロックがかからないような無意識領域に、宗教的マインドコントロールにつながるメッセージが到達してしまうということを意味しています。

用語解説程度の親切かのような動画であっても、そうした宗教団体系の動画はプロパガンダを目的としているということは言うまでもありません。

そして宗教団体の名称で配信されている場合は、多少のガードがかかるということを見越して、個人名や別の目的を持つ団体の名義で、サブリミナルメッセージを組み込んだ動画を配信している可能性もあります。

そうしたものを疑いだせばキリがありませんが、少なくとも宗教団体名のもの、何かしらの勧誘活動につながっているものなどは、ある程度身構えていたほうが無難という感じになるでしょう。

少なくとも原典に触れる

また各宗教系や哲学系問わず、「動画で知る」というのは補足程度にして、少なくとも原典に触れるということをしておくと比較的安全です。

どれだけ活字が嫌いなんだという感じもしてしまいますが、例えば西洋哲学であれば、「その概念を提唱した人物の著書とその人物を研究している人の本」という感じで、原典と学者さんの入門書くらいで基本は十分に理解できるはずですし、どちらかというと先にそっちだろうと思ってしまいます(もちろん動画に比べて労力は格段に必要となります)。インターネット上でもテキストベースならばそれほど危険性はないと思いますが、動画となると様々なテクニックを組み込むことができるので危険性が格段に増します。

「ちょっとした倫理の勉強のつもりがマインドコントロールされた」なんてなことにならないように、と思っています。

労力はかかりますが、労力がかかった分だけ血肉と化します。

簡単に手に入ったものは、その簡単さに応じていわゆる価値や意味がありません。

本格的に知るのであれば、少なくとも原典に触れるということは必要ですし、軽く知るという場合でも、安全性を考えるならば、学者さんの入門書くらいが一番良いでしょう。

まあ「知ったところで仕方がない」という場合も多々あるので、何とも言えない部分はありますが、危険性を回避するという意味ではそうした姿勢でいるのが一番でしょう。

その立場の中にあって最良であれ

金融資本主義の中では、ある程度の経歴がないとモノを言ってはいけないかのような風潮がありますが、恵まれた環境の中で育っている人たちは、その恵まれ度合いに応じて、それ以外の人たちの心を推測できないという欠陥があったりします。

もちろんその逆もまた然りであり、責任がのしかかっている立場にある人が全体を俯瞰して考えているという状況を理解できずに、自己都合だけを主張するという場合もあります。

自由意志と意志の形成を考えれば、それらは選べないような環境の連続の中で、たまたまの連続でそうなっただけという感じなので致し方ない面はあります。しかしながら、どのような立場にあっても、最良である事はできるので、可能な限り「社会におけるこの私」はそうしているに越したことはありません。

揺れる概念、揺れる確率の中で、最良を決定するという感じです。

立ち位置や職業などは、基本的に「たまたまの連続で現在の状態になっている」という感じになりますが、どのような立場であれ、理に基づいて理性的に生きることはできます。

あるコミュニティの構成員と関われるのは、主にそのコミュニティ内の人です。なので、どのようなコミュニティであれ、その中で最良であれば、「世界を変える」などと意気込まなくても良いのではないでしょうか。

社会の中での活動は全て、嫌でも社会に影響を与えます。

「必ず影響を与えてしまう」という理からは逃れることができません。

極端に考えれば、例えば同僚が挨拶してきてくれたことに対し、敵意があるかのように機嫌が悪そうに返事するということも、些細なことかもしれませんが、犯罪や自殺などを助長する行為にすらなります。

もちろんそれら些細な行為は、社会的に罰を与えられる程度のものではありません。

しかし、必ず影響を与えるということになります。

現在の組織の構造上、完全に良い行為というものは難しいとしてもマシな方を選ぶということくらいはできます。

今月の成績がやばいからという理由で詐欺まがいの営業をする上司を食い止めることはパワーバランス的に難しいかもしれませんが、自分も成績が悪くて後に恫喝されることが推測されようとも、自分はやらないということを選ぶことはできますし、そのような職場にしがみつくということをやめる、ということもできます。

個人的には、会社のことに関しては全責任を負うということなので、権限を駆使して見込み客に説教をしたりしています。

病に苦しむ患者を経済活動の中の顧客のように取り扱う拝金主義の医師に対し、相手にせずに単に去るということもできますが、「患者は顧客ではない。まずは自分自身の人格を疑いたまえ。いくら積まれても手は貸さんよ」というようなことを平気で言います。ある程度の論証込みでです。

もちろん相手は尊厳を踏みにじられ、歯ぎしりをし、時に逆恨みすらしてくるかもしれません。

それでも誰か一人くらいははっきり言う人がいないと、反省する動機が生まれません。勉強だけしていればみんながちやほやしてくれたような環境で育ち、何かを勘違いしているような輩には、一度くらいはっきりと本来の意味での「説教」をして、気づくきっかけを与えなければなりません。

これは、先の友人の話で言えば「なりたくない大人」に自分がならないということはもちろん、「そんな大人に、『大人の平手打ち』くらいはくらわしてやれるくらいの大人にはなろう」という十代の時の自分が思い描いた大人像の自己実現でもあります。

なので、私事といえば私事です。

まあ僕の場合は、自分の立ち位置をフルに活用したまでのことです。

でもどのような立場であれ、その立場に応じた最良を選択できることはできます。

それでは引き続きご愛読くださいませ。


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Category:miscellaneous notes 雑記

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