祝九周年

本ブログも九周年を迎えることになりました。ちなみにこれで2119記事目になります。今回は、単純に九周年というタイトルです。

祝八周年の時は2022記事だったので、この一年で100弱の投稿をしたことになります。

さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。コメントを寄せていただいた方やcontactからご連絡を頂いた方、また、ひっそりと読んでいただいている方々、いつもありがとうございます。

アクセス状況

この一年でこのブログにやってきた人の数は、52,166名ということのようでした。その前の期間は88,895名だったので年間ベースで3.6万人強減少しました。40%以上減ったということになります。

ただページビューの総数は、前年との比較で3%しか下がっていません。同時に直帰率が「-48%程度」と著しく下がりました。つまり1ページだけ見てすぐどこかへ行ってしまう人が激減したということになります。

ユーザー数は40%も下がっているのに、ページビューの総数が3%しか変わっていない、ということは、常連さんばかりになってきたということになります。嬉しい傾向です。

男女比は、男性 53.49%、女性 46.51%といった感じです。

今回もやや男性のアクセスの方が多い結果となり、僅かなものですが男性比率が高まっています。

23区を市扱いにした上での市町村別アクセストップ10は、大阪市、渋谷区、横浜市、名古屋市、福岡市、札幌市、さいたま市、京都市、神戸市、広島市という順になりました。トップ10を構成する市・区がやや変化しました。なお、市区別の場合は上記のとおりですが、都道府県別としては東京が全体の35.29%を占めています。

なお、国外アクセスの1位はアメリカで、全体のうちの0.42%がアメリカからのアクセスでした(スパムが多いため中国とロシアは未だにアクセスを拒否しています)。

アクセス経路としては、自然検索が81.18%、Directが16.96%という感じになっています。Directの比重がさらに高まっているという点からも、より常連さん向けになってきたという感じがします。なお、ソーシャル経由(0.70%)のうちTwitterが86.14%を占めていました。

年齢層

  • 18-24 32.14%
  • 25-34 24.01%
  • 35-44 22.03%
  • 45-54 11.28%
  • 55-64 5.75%
  • 65+ 4.79%

年齢層としては、またまた18-24 が増加する形になりました。

デバイス

  1. mobile 68.06%
  2. desktop 29.69%
  3. tablet 2.25%

今回もまた、昨年に比べてややdesktopの比重が高まりました。

サイト全体の本文文字数

本投稿を含む文字数は、

全投稿の本文文字数 5,070,308字

1投稿あたりの平均文字数 2,392字

でした。

サイト内検索

毎度おなじみサイト内検索です。

前回から今回までの間に検索されたワードは、2961ワードでした。

検索回数上位は、断捨離、所有、涅槃、ヴィパッサナー、自我、効果、スマートフォン、読書、テレビ、営業といったようなワードでした。

さて、そろそろ九周年の回らしくより個人的なことについてでも触れていきましょう。と思いましたが、やはり急ぎ足で適当に思いついたことについて触れていきます(実を言うと本日の夕方まで「今日が九周年であること」を忘れていました)。

ゆるやかな四無量心

世の中では、真面目なことが推奨されています。

相手に対して誠実というのは良いですが、何でもかんでも真面目に捉えるというのは、本質からズレてしまうことがあります。

例えば「真面目にやってるんですが…」と、仕事がうまくいかない人がいます。

そうした人は、いくつか忘れていることがあります。

それは

「面白くない」という点です。

「楽しくない」という点です。

「気軽さがない」という点です。

「自分のことしか見えていない」という点です。

「真面目に何かを我慢して、我慢しなくてもいい方法を考えない」という点です。

「顔が笑っていない」という点です。

そんな感じで実はたくさんあります。

それが「ゆるやかな四無量心」とどう関係があるのか、という点ですが、それについては今から触れていきます。

四無量心というと、慈悲喜捨です。

これについて語られる時、だいたいは真面目に語られてしまいます。

真面目に語るというのもいいですが、真面目に語って堅苦しくなるのであれば、本質からズレてしまいます。

かなりゆるやかに慈悲喜捨について、それぞれ触れておくと、

慈は、友愛です。友だちと仲良く楽しくという感覚です。

悲は、苦を取り除きたいという気持ちです。

喜は、相手の喜びを喜ぶことのできる気持ちです。

捨は、分け隔てのない気持ち、そして平静な精神です。

これら慈悲喜捨について、真面目に勉強すると誰か他人、他者についてばかり考えてしまいます。ということで、「自分自身についても同様に」というところが抜け落ちていたりすることがあります。

また、「慈悲」を言う言葉を、雰囲気だけで真面目に捉えようとすると、相手に対する「悲」ばかりが際立ってしまいます。そして自分に対する慈悲喜捨が欠落すると自己犠牲に走ってしまいます。これが「真面目」の悪いところです。

自分が暗い顔をして相手の苦を取り除くというというのは、ズレています。さらに相手に重荷を与えかねません。

慈悲の「慈」が抜けています。「喜」が抜けています。自分と相手を分け隔てているという意味で「捨」が抜けています。

「慈」には「友だちと楽しく」という感覚が含まれています。

そういえば小学生の時に一人でノリノリで下校していたら、ある小学生が話しかけてきて「友だちになろか?」と声をかけてきました。

話してみると同級生だったのですが、お互いそれまで相手のことは知りませんでした。そしてその場で「一回帰ってから遊ぼか。オレんちそこやから」と言ったりして結局、その日は一緒に公園で遊んだりしました。

それくらい軽くゆるく友だちと楽しくというが「慈」です。

「悲」とセットの「慈悲」でいうと、暗く沈んでいそうな子がいたら、「一緒に帰ろか。そのあと遊ぼか?」と気軽に声をかけるというようなものです。一緒に遊んでいて友達が怪我をしたとすれば、大人を呼びに行くという感覚です。

それくらい軽いものです。

「喜」をかなりゆるく表現すると、友達に初めて彼女ができた時に「なんと、〇〇くんに初めて彼女ができました!」と友達みんなで胴上げをするような感覚です。

「捨」を劇的にゆるく表現すると、お父さんが理不尽なことを言ってきたりした時に「親のくせに」「大人のくせに」などと思わずに、「お父さんもただの一人の人だからな。そんな時もあるよ」と平常心を保つというようなものになります。

そしてこれらはだいたい相手、とりわけ人間にだけ向けられます。

しかしそんな「相手」だけでなく自分にも、すべての生き物にも向けるというのが、慈悲喜捨のこころ、四無量心です。

相手にするように、自分にも優しく楽しく気軽に、自分の苦しみを取り除き、自分を喜ばせ、喜ぶ時は思いっきり喜ぶということになります。

悲しみ鬱ぎ込む友達にごはんをごちそうするのもいいですが、傷ついたアシナガバチにもハチミツをごちそうするというような感じです。

「目の前の人に四無量心を」というのもいいですが、それだけでは狭すぎます。

ただ、「目の前の人に四無量心を」とすら思えない時は、先に自分に向けなければなりません。

自分の生命も、「すべての生命」に含まれていることを忘れてはなりません。

「真面目にやってるんですが…」という人に「あなたは自分のことしか見えていない」というと、だいたい「自分のことしか見えていないということはないはずですが…」という反論が来ます。表面的にはその通りです。

しかしながら、自分の真面目さへの執着があります。「これだけをやればいいんだ」という慢心があります。真面目に事務的なことを行為としてやればいいだという勝手な取り決めです。

相手のことを思う前に自分の真面目なやり方への固執があります。

だから相手のことを思っている格好にはなっていても、相手が本当に求めていることには到達していないということになっています。

「真面目にやってくれているのはありがたのですが…」というような重苦しい空気を与えています。

暗い顔、我慢した顔で真面目にやられると、相手は気が重くなります。

相手としては、「そんな暗さを見せられるなら、もう少し手を抜いてくれても構わない」と思っているかもしれません。

真面目さに取りつかれている時、自分自身が面白くない、楽しくない、気軽さがないという状態になっています。

この時、自分自身への四無量心が不足しています。

真面目に四無量心をとらえると、「立派な人間になるために」と我慢がやってきます。重く、苦しい感じになってしまいます。相手のためにということばかりに固執して、結局相手のためにもならないような格好になることもあります。

自分にお金がないと、相手にお金を与えることはできないのと同様に、自分自身に面白さや楽しさがないと、相手に面白さや楽しさを与えることはできません。

自分自身に気軽さがないと、相手に気軽さを与えることはできません。

自分自身に我慢と不満が充満している中、相手に喜びだけを与えることはできません。表面的な喜びに加えて気まずさ、気の重さを与えることになるでしょう。

だいたい四無量心、慈悲喜捨が語られる時「相手の~」という表現になっています。「相手の苦しみを取り除きたいという気持ち」というようなものですね。

しかしながら、この「相手の」というのは他人だけではありません。本来の対象は「すべての生命」であり、そこには自分自身の生命も含まれています。

それでは引き続きご愛読くださいませ。

Category:miscellaneous notes 雑記

「祝九周年」への2件のフィードバック

  1. 九周年おめでとうございます!
    私は昨年末頃にこちらのブログを見つけて、ほぼ毎日のように読ませて頂いてます!
    今までハウツー本とか分かりづらい言葉を用いた哲学本、自称哲人のアフィ記事など色々見て回りましたが、bossuさんの言葉ほど私の価値観を大きく変えたものはありません。
    (勿論良い意味です)

    最後に改めまして、ほんとうにおめでとうございます!
    次の記事も楽しみにしております!

    1. コメントならびにご愛読どうもありがとうございます。
      何かしらお役に立てたようで何よりです。

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