知足と空性と「充足への移動」

知足、「足るを知る」について触れていきます。その意味について至るところで様々な解釈がなされていますが、まあそれだけ抽象性があるということになるのでしょう。ただ一応ここでは、仮観の内にある俗物の解釈を超えて智慧により「足るを知る」を捉えていきます。

つぶやき程度ですが、知足について「吾唯足るを知る」というものは、吾唯足知・吾唯知足と書かれたりします。この表現は国産のものであると考えられるので、レ点の問題だけだと思っています。知足は、大乗の仏遺教経における「知足之者」や「老子」などで出てくるものですが、老子の「知足者富」(33)「知足不辱」(44)における知足は、もちろん漢文なのでそのまま読みます(なお、漢文表現であるため大乗などが出てきますが、言語的な参考程度であり、それを根拠としているわけではありませんのであしからず)。しかし、日本国内では「知」レ点「足」という感じなので、これを元に日本において創作され「レ点」を絡ませないとすると足知となります(例えば、「社会(society)」と「会社(company)」では意味が結構異なるので、こう紛らわしいことはしないで欲しいと思ったりもします)。

さて、知足は、字面だけみると「現状に満足しろ」と体育会系の上層部に押さえつけられているような気分になってしまいますが、一般に想起されるようなそんな感じではありません。

まず、普通に考えると「必要なものは全て揃っているからこそ、今この瞬間に生きている。その事を知る」というような意味になりそうなものです。それはその通りですし、生かされているというような感謝的なものも含まれている感じがします。ただ、そこには「分相応」的な感じも入っており、「満足しろ」「わきまえろ」的な威圧や断念という意味での諦めなども含まれていそうな感じがします。

また、能力が自分の内にあるとか、そうしたレッツポジティブシンキング系の解釈も蔓延しています。しかしここで触れる「足るを知る」は、そうした次元ものではありません。

「ある」と「ない」の空性から観る知足

先の「ゼロの錯覚」で次のような点について触れていました。

「ある」場合でも、厳密には五感で触れることや意識で想起するにより、あると判断して捉えているというだけで、「ある」が確定しているわけではありません。

逆に「~がない」というのも、五感で触れたり意識で想起することにより、ないと判断して捉えているというだけで、「ない」が確定しているわけではありません。

ということで、哲学的に見ると「ある」と「ない」の両方が確定的ではないという感じになるので、そうなると一般的な「足るを知る」の前提となる「あるから足りている」の「ある」がぐらついてきます。

あるという判断や無いという判断に関して、記憶や欲求も関係はしてきますが、そもそも知足を考える上での対象の有無に関する空性がパスされているという感じになります。というところが仮観からの思考ということを示しています。

どのようにして「足るを知る」のか

一般的な思考上の理解の範囲で「足るを知る」ということを考えてみた場合、単に「満足しているということを知る」という感じで、余計な欲を起こさず、満足しなさいと命令されているように感じてしまいます。

しかしながら、「欲しい」という衝動について、思考でとやかくできるものではありませんし、抑え込んでも抑圧してしまうだけです。

「本当は欲しいのに欲しくないフリをする」という感じになってしまったり、「自分は足りているんだ、足りているんだ」と自分を言い聞かすような感じで我慢を強いられているような感じになってしまったりします。

そうなると「本当は欲しいのに」という気持ちを隠すだけになるので、心が安らぎに帰しているわけではありません。

部分的には「まあ別にいいか」という判断が下り、本当に欲しくなくなるということも起こったりしますが、全般に渡って心の底から「足りているんだ。私はそのことを知っている」などと思えるのでしょうか。そして思っているとして、心は完全に安穏の中にあるのでしょうか。

それは「そうだ!私にはその力がある」というような自己啓発にハマった人のようなものについても同様です。

心は安らぎの中にあるのでしょうか?

興奮して不安を払拭できているかのように錯覚しているだけかもしれません。

では、そうした感じで頭で理解するのではなく、足ることを知るにはどうすればよいのでしょうか?

それは単純です。

「欲し、得てから満足する」というプロセスをすっ飛ばして、いきなり得た状態になればよいのです。

というと意味不明のように感じてしまうかもしれません。

なのでもう少し具に観ていきましょう。

充足した状態に移動する

無駄の範疇に入る様々な「欲しい」とか「不足している」というようなものは、あくまで今ある情報の中から「まあこれだろう」と思った検討から設定されたものばかりです。

まず最初に「嫌な感じ」があり、それを解消するための方法として「まあこうなれば解消できるだろう」というような感じで考えた事柄という感じになります。

ということで、最もわかりやすい領域として示すと「嫌な感じ」から始まるので、本来は体感領域です。

「だから体感的にも楽になりたいから欲しいんじゃないか」

ということになりそうですが、本来は楽になった状態に移動するほうが先です。

本来、「ある」も「ない」もありません。すべては空としての性質を持っています。

その上、時間というものですら存在するのではなく「今」しかありません。

そんな中、あまりに具体的な何かに意識を向けてそれにとらわれていると「次の瞬間の移動」をすることはできません。

例えば、就職活動をしていて焦っている就活生は、内定を得ることしか頭にありません。必要に迫られているような気もしますし、時期的なチャンスもどんどん変化していきます。なので、「どうしても早く欲しい」という焦燥に駆られてしまいます。

「足るを知るなどといわれても、そんなことは内定が出てからだ」

という感じになってしまいます。

しかしながら想像にたやすく、まずは内定が出た後の感覚に移動する方が先です。

「出ていないのだから安心などできない」

という感じにもなりそうですが、内定が出たと思い込むことではなく、「仮に内定が出た後であればどのような体感になっているか」という感覚の方に着目しなければなりません。

個人差はあると思いますが、まず肩の力が抜け、誇らしく思い、清々しい気持ちで肩で風を切って歩くのではないでしょうか。

同じ就活生に武勇伝でも語ってやろうか、というような気分にもなり、どうやらまだ内定が出ていない人たちに先んじて大人になったような気分にもなっているでしょう。

しかし一応可能性としては、そのままその後の全てがうまくいくかはわかりません。しかしながら、ひとまずその時は、心地よく、誇らしく、清々しく、という感じになっているでしょう。

黙っていても若干はにかみ、嬉しさや楽しさが溢れ出てきています。

ひとまずどこにいっても堂々としていることができます。

ということを思い込もうとするのではなく「その状態に移動する」という感じです。

「全てが満足した状態になったとすれば、きっとこんな感覚でいるだろう」

という体感の方にフッと移動する感じです。

もしその状態になれたとすれば、内定が出ていても出ていなくても同じです。心は不足を感じていません。まさに足るを知る状態です。

「別に就職するということでなくてもよいのではないか?」ということすら、恐怖心からではなく思えてきます。となると、採用試験で落ちてもなんとも思いません。

これは個別具体的な例でしたが、そうした具体事例にとらわれず、「全般において満足した状態」へと感覚をどんどん抽象化していくと、究極地点としての安穏が見えてきます。

究極地点としての安穏

そうした体感や気分を突き詰めていくと究極地点としての完全なる安穏にたどり着いていきます。

もし、高級車が欲しいと思って、「高級車が手に入ったらどんな気分がするか」ということに思いを巡らせた場合、「自慢げに誇らしげな気分になるだろう、それで自分は満足する」という感じのことを発見したとしましょう。

しかしながら、自慢したいと思うことは、それだけ自尊心が欠落しており、それを充足したいという意図があるだけです。

それをさらに考えていくと、自尊心を傷つけられた時に起こる落胆の感じ、言い返せない、やり返せない憤り等々です。しかしそれも根源は「恐怖心の克服」というところから来ています。

ということは、欲しいのは高級車そのものでもなく、それによって叶うであろう自慢でもなく、それら全てを経て得る「恐怖のなさ」という感じになっていきます。

どの方向からも傷つけられ得ぬ「最強さ」が最高であるという感じです。

しかしながら、日常の思考のレベルで最強を考えると、社会的強者になろうというようなことしか思い浮かびません。

「私には〇〇があるから」

というのは安らぎに対しての条件となっていきます。

しかしながら、論理上そんな条件がなければ無いほど簡単に安らげるという単純な構造になっています。

そういうわけなので究極地点としての安穏は、最も「必要となる条件」がない状態という感じになります。

自然と無駄な欲は形成されなくなる

「欲は少ないほうがいい」

ということがわかっていても、欲が形成されてしまいます。

そんな中、「欲に振り回されるのもなぁ」ということで抑え込みが起こり「我慢」というものが生じてきます。結局欲によっても安らぎから遠ざかり、我慢によっても安らぎから遠ざかるという格好になってしまいます。

「足るを知る」と言われても、欲は生じ、そしてそれを抑圧する、という感じで、知ったところでどうにもならない、という感じになってしまいがちです。

しかしながら、一切は空性を持っています。「ある」も「ない」もありません。

何かに執着しようにも本来はあってないようなものです。また、「無い」と判断しようが、本来はあるようなものです。

というところから「知足」を捉えてみてください。

「それが完了した後の感じ」の方に移動して、「まあどちらでもいいかなぁ」というような感想がやってきた暁には、自然と無駄な欲は形成されなくなっていきます。

抑え込みや我慢、思い込みではない知足が訪れてくるでしょう。

Category:philosophy 哲学

「知足と空性と「充足への移動」」への4件のフィードバック

  1. こんばんは、ようやくコメントを返信させていただきました。

    まず始めに、左手を負傷されたとお聞きしましたが、現在だいぶ治癒されたとのことでしたので、とても安心致しました。
    どうか、一刻も早い完治を心からお祈りしております。
    bossu様のコメントも心待ちに、あくびもせずに楽しみにしております!

    それでは、本題に入らせていただきます。

    捨てられた時計が時間を刻み続けるように、意識下になくても生きてる限り己が欲望は働いていますよね。

    本来は「ある」しかないとは言ったものの、「ない」も全て空により包括された概念の内側でしかないのでしょうか。
    「空を掴む」という言葉が、的を得ているのではないかと思いました。

    なので「過去未来をかえりみず、「今」の状態だけを追いかけてみる」というところが、有力な手引きとなりえそうですね。(もっと凝視してみるというか)

    知足についても、以前bossu様のどこかの記事で拝見させていただいた記憶があるのですが「現状が死活問題の危機に立たされてなければ、基本的に生き物は満足ですよ」という感じのことを聞いて、思えば当たり前のことなんだけど、自分にとっては衝撃でとても大きな気づきでした。

    「金が減ったただの、フラれただの、食い足りなかっただの、顔が潰れただの….いちいち悩む余裕があっていいねお前らは」

    もし動植物達からそう言われた日には、会わせる顔なんてないと深々と感じたものです。

    「足るを知る」の実践についても、まず願望をしっかり描くことはいいことですよね。
    それはどんな自分なのか、その時自分はどんな行動をとるだろうか?
    それが自分とはかけ離れた想像上の自分でも、疑うことなく演じきるならば、いずれ違う風が吹きそう気もしますね。

    ということで、手始めにエアギターから猛特訓してみようかと思います!
    実際に爪弾けなくとも、まずは心で奏でるメロディーに入り浸るのだー!
    ギュイィ〜ン!!!!(冗談です笑)

    1. コメントならびにお心遣いありがとうございます。

      一切は、今受け取っているもののみとなります。
      それがあるのでもないのでも無いようなものであっても、「そのように感じて受け取っている」という構造があれば、それは現実であろうがなかろうが構造上関係がなく、特に差はないということになります。
      意識の妄想が働いている時は、妄想による反応を今、心が受け取っているということになります。
      その妄想には、「あるはずであるが、無い」とか「欲しいと思うが、無い」という不足側の妄想も含まれます。
      そんな時に現実としての有・無を「考える」と考えた結果としての感情が生まれ、それを受け取ることになります。
      どのような時でも、五感で感じるもの以外を排除すれば、より純化された本質的な現実のみを受け取ることになります。

      そんな中、現実としての有無、視覚や概念として確認できるか否か、というところに重きを置くと、不足から起こる精神としての苦しみを得ることになります。
      対象が生理レベルを飛び越した思考上のものなのであれば、一度起こった不足の判定から、その後何かを手に入れて充足に至ったと思ったとしても、実質的に動くのは精神の働き、精神状態という無形の情報部分になります。
      であるのならば、無形の情報を先に充足の状態にしておけば、現実がどうなろうと執著は起こりません。
      よりよい豊かさが訪れるならそれでいいですし、そうでなくとも心は穏やかなのでそれでいいという感じになります。

      何かへの抵抗するという感覚から離れた「より良き状態」を思い描き、体感ベースでその状態になるというのが最もよいという感じになりましょう。

  2. おはようございます。

    おっしゃる通り体感ベースはとても重要だと僕も思いました。人間を突き動かす原動力にもなり得るものですよね。

    そして自分を取り巻く環境と気持ちの働きは、常に均衡した世界を映しているわけではないですよね。
    目に映る環境を真っ先に変えようとするのは、心の働きの執着、依存であり全くの誤謬ですね。
    典型的な仮観のしがらみに囚われているとも言い換えれるかと思いますし、そこをイジっても本当の解決には至らないようにも感じます。

    空観というものも学ばせていただき、これらを踏まえてみると「世界は自分だけのもの」と仰っていた、bossu様の言葉の髄も少しだけ分かったように感じる今日この頃です。

    1. (恐縮ながら、投稿テーマからズレるため、いただいた内容の後半部分を比較的該当するであろう投稿の方に移動させていただきました)

      さて、目に映るものを解釈する時、言語を通すと知識などからくる意識の偏りが生じます。
      それはそれである解釈の仕方としてひとつの正しさを帯びていますが、他の解釈も可能という側面もありますし、解釈すら通さない、五感のストレートな受け取りが本来のありのままの現実であることから、それが苦しみを生起させるのであれば、それは余計なもの、つまり無駄なものとなりえます。

      仮観や空観もひとつの「梯」としての概念にしかすぎませんので、その概念や概念から起こる思考にとらわれず、受け取る働きとしての「心」を中心に、より本質的な現実を捉えてみてください。

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