欲やその充足については、まさに喉の渇きと例えられるように充足してもマイナスからゼロになるだけであり、プラスに感じてしまうのはその差の大きさからの印象にしか過ぎないということになっています。ということで、基本的には苦の範疇です。
そんな中でも生きているからにはどうしようもないという生苦の範囲に入るものと、やはり厳密に考えれば自作自演の「苦」としか捉えることができない無駄な苦しみがあります。
水を求めるように求めよ
それが意識的なものでそれほど厳密に決まっていないようなことであっても、自我は生理的な喉の乾きの不快パターンを利用し、「さあ水を求めるように求めよ」と衝動を与えてきたりします。
だいたい強烈なやる気というものは、未来にいいことがあるぞという予想か、現状の不快感からの脱却か、その両方か、というところくらいしか生まれません。
○玉の衝動にしても、その根本は排泄欲であり、どちらかというと不快感の解消、つまり怒りの解消の方が強いという感じになっています。「意識的な問題なのだろうから、簡単にコントロールできるだろう」と思われたりしますが、半分以上は体の都合であり、あまりに軽視していると会陰付近等々が部分的にパンパンに腫れ上がったりして体調を崩してしまうということもあります。
「知と愛」により夢に見たディオニュソス的なもの
そういえば先日ヘルマン・ヘッセ氏の「知と愛(原題:Narziss und Goldmund)」を読みながらむにゃむにゃとうたた寝したときのことです(ちなみに先程知りましたが、偶然にもNarziss und Goldmundはドイツにて映画として今年公開されたりしていたようです)。うたた寝から目覚める瞬間、現役中学生並みにカンカンです。やはり生まれつきZの称号を抱えるものとしては、起きがけという無意識の領域では体本来の実力が発揮されるのでしょう。
何事もずるむけ感満載の昨今ではありますが、やはりそうなるにはできるだけ抽象表現の方が適しているということがわかったような気もしましたし、「知と愛」の訳者である高橋健二氏の解説による言葉を借りれば生命としての自分の半分はディオニュソス的であるということになるのでしょう。
ゲーテ、ニーチェ、そしてヘッセと、彼らは皆そういうテーマを根本に秘めているような気がします。やはり地域的な伝統とも言えそうな感じもしますし、気質的な類似性によるものとも捉えられそうな気もします。
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そういえば最近、夢の中で喉が渇いたと思った時、たいてい強烈ないびきの轟音が響き渡っていることに気づきました。
喉の乾きと言えば渇きですが、いびきの振動・響きで喉が痛んでいるだけなので、いびきが止まればそれもなくなるということを学習したのか、最近では水を欲する夢を見た時、半分目覚めて横を向くということを半無意識で行っています。
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渇するものは夢に漿水を飲む。
それは本当に渇きなのか。
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