この8月、なぜか昔お付き合いしていた方に二人も会いました。共に「ばったり」です。今でもキレイでしたね。でも、それぞれの方に特に思い入れはありません。
思い入れは無いのですが、やはりそれら方々に共通して「なんで?」という疑問がありました。
なぜか「ふっ」と気分が変わるんですね。
気持ちの上で何が変化するのかということがわかりませんし、分かる必要もないと思っています。
何かが足りないというわけでもないのでしょう。
何かが嫌だというわけでもないのでしょう。
では、「なんでですか?」と言いたくなる態度に、急になるのはなぜですか?
という疑問は昔からつきまとっています。
普通、意識の上では到底納得できません。
―
僕が成長すると、面白くなくなるのでしょうか。
でも成長しないというのもおかしいですね。何かは常に変化していきます。
ある程度そのままでいても面白くなくなる、成長しても面白くなくなる、堕落すればもっと面白くなくなる、ということなので、どうしようもありません。
つまり結論としては、「どうもしなくていい」ということになります。
相手に対して、何かをしなければならないということはない、ということになりますね。
―
昔は、変に頑張ったりもしました。
端的には「よりかっこよくなってみよう」「より一層優しくなってみよう、気遣いができるようになろう」「出世してみよう」とかそんなことですね。
でも頑張っても相手に合わせている時点で終わっているんですね。
そういう時期もあってもいいですが、無念しか残りません。
多少なり自他ともに満足する時期があっても、何かの不足を埋めるという構造は、いつまでも終わりがありません。
結局、この世界には、この心しか無いんですね。
僕はただ単に、自分の世界で自分に無条件の安らぎを感じていたかっただけでした。仮観前提で「自分」というとエゴイズムのようですが、そういうものではなくて、自我すら包括したこの空間で「この心」が安心するといったことになります。
そんなものを求めつつも、結局「いつでもどこでも安心」「いつでもどこでも相思相愛」ということを、他人を通じて確認しようとしていただけでした。
そして、「他人に合わせないとそれを感じられない」と、アイツこと自我に思い込まされていただけでした。
だからいつまでも残念、無念、渇望なんかが残っていたということになります。
極端に表現すると
「これを達成しないと捨てられる」
という思い込みがどこかにあったのでしょう。
でも達成しても束の間です。
―
でもまあ無条件ではなく何かのきっかけで途中からは取引のようになっていたんですね。
で、いろいろと頑張ってみても、なぜか、意味不明な冷たさ、盛り上がりの無さ、疲れたような顔を見せられるようになります。
「何なんですか?」
と言いたくなります。
別にムカつくなら、殴ってもいいと思います。
でもまあ、見たいのは「愛に溢れた世界」です。物理的に操作しようとしても、それは操作することができません。殴っても虚しいだけです(実際に誰かを殴ったことはありません)。
そして相手はただの象徴です。
「これを達成しないと捨てられる」
そんなことを思い込んだのは、この自我です。
ただ、幼少期のように「愛に溢れた世界」にいたいだけなのに、条件が付けられているような、そのままの自分では呆れられるような、飽きられるような、そして、その世界が壊れるような不安が押し寄せます。
それに抵抗しても、結局、無念だけが残ります。
抵抗して、「普通に考えると良いこと」をやればやるほど逆行します。頑張れば頑張るほど、冷たくなります。
でも何もしないのも気が引けます。
―
では、どのような態度がいいのでしょうか?
その答えを見つけるまで、長い年月を費やしました。
世界の歪みを感じだした思春期くらいから、相当の紆余曲折がありました。
でももう答えに到達したので、そのためのプロセスだったのであればそれでいいと思っています。
「何もしない」
それが答えです。
「何もしない」ということには抵抗が起こります。
その抵抗が、苦を生じさせます。
意識が騒ぎます。
「愛しい人との関係性を失う恐怖」、「頑張った自分をバカらしいと感じてしまう恐怖」、「今日は大丈夫でも明日はわからないという恐怖」、「キラキラした思い出が意味をなさなくなる恐怖」をはじめ、いろいろな恐怖がやってきます。
普通は力を抜いて抵抗を解くことに対して抵抗します。
「何もしなくなったらよりやばくなって、取り返しがつかなくなる。だから何かをやるんだ」
といった感じです。
それでは抵抗が増してしまいます。
なので抵抗に対して許容します。
「それはその通り。そう思っていてもいいじゃないか」ということですね。
すると、どんどん抵抗は力を弱めます。
そして「何もしない」を受け入れていきます。
そんな時、「今」に意識を向けると、特に何も起こっていないことに気づきます。
「何もしない」
というよりも、
「何もできない」
と言った方がニュアンスとしては近いものがあります。
―
「何もしない」
ということは語弊があるかもしれません。
もう少し突き詰めると
「無理はしない」
ということです。
これは、世間で言う「無理をしない」ということとは少し感覚が違うかもしれません。
「理」の上で意味がないことはしない、というような意味になります。
「何もしない」
「無理はしない」
というと、意識は騒ぎますね。
たいていは
「おいおいおいおい…」
となります。
そして頭に色々と浮かびます。
その時に取る態度は
「どうぞ」
です。
誰かしらに急に冷たい態度を取られても
「どうぞ」
ですね。
とどのつまり、執著を手放すということですね。
これはただ苦しみを避けるために執著対象を無理に諦めるというのとは少し違います。
執著を残しながら不貞腐れてどうでもいいと言うのではなくて、本当に「どうでもいい」ということになります。
―
僕は、というより「心」は、無条件に幸せでいて良いわけです。
むしろそれが基本形です。
あってもいいですし、なくてもいいということになります。
頭で考えると、「あれがあるということは、無条件ではない」とか「思いがあるから関係性がある」ということになりますが、別になくてもいいんですね。
何かをしてもいいですが、何もしなくてもいいということになります。
所詮、不足感というもの、恐怖心というものは、ただの影です。
影には形がありますが、実体はありません。
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