期待を失わずにいられる空想家

期待ということはある意味での確信がないということであり、空想というと絵空事という感じなので「期待を失わずにいられる空想家」という表現はあまり適していませんが、概ねそのような感じで過ごすと毎日が爽快になります。

今お金がないとして、にっちもさっちもいかないという状態だったとしましょう。しかし、一応可能性としては、明日にはそれが解決しているという可能性もあります。それがどのような解決のプロセスかはわからなくても、可能性としてはゼロではありません。

もしそうであれば、今の状態に対して何かしらの判断をして思い煩うということは全く無駄になってしまいます。

一応本来は、「想像もできないような未来」の方がいいですが、そうなるとあまり実感がわきません。

ということなので、リアルな日常の中である意味理想的なのは、「試験後に自己採点を行い、合格を確信している状態で合格通知が来るまでの間、『その後の生活』を空想しながら過ごす」というような感じです。

イメージした「その先の生活」を手放すまいとする一種の執著が生まれる可能性がありますが、一応そこには不足がありません。

というような構造は何かと似ている、と気づいた方は相当賢明だと思いますが、これが信仰によって今を支える「宗教」の構造です。

そう思うことによって、一応今安心し、安心を中心とした情動がセットされ、それに合わせるように現実が見えるようになる、という構造です。

ただ、傍から見ると「絶対確実か?」ということになるので、信仰によって支えなくてはならなくなります。しかし、そうした信仰がないと安心も、未来への方向性も土台が崩れてしまい、苦しみを感じ、不足の方に目が行くようになります。

なので、安心を護るために「遮蔽する」という感じになります。

こうした構造を観ると、宗教にハマっている人も温かい目で見ることができるようになるでしょう。

しかしながら、こうした構造は万能ではなく、問題が生じることがあります。

それは何かしら具体性を帯びた世界観が紐づくことで、妄想が加速し、「未来の安心」を手放すまいとする一種の執著が生まれる可能性があるという点です。そうしたことから戦争をはじめとした争いが起こり、それが利用されることによって、霊感商法を含めた冠婚葬祭墓場利権が成り立っていると言っても過言ではありません。

なので本来は理を観て現実を観るというのが一番です。

そして、未来を想像する云々という場合には、余計な概念を加えずに「ああ最高に安らかである」というような情動のみに純化するのが一番です。

そうなると現実を明らかに観ることで錯覚を破った状態が最高地点ということになります。

何かにすがり期待するというプロセス自体が不要です。

Category:笑う月

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