暇つぶしと集中力の分散による怒り

11月は児童虐待防止推進月間ということで、今年も少しだけ児童虐待防止について触れていきましょう(なお、昨年の「しないこと」への評価で触れていますが、個人的には言葉的には児童虐待防止よりも児童愛護の方が表現としては良いのではないかと思ったりします)。

根本的にこうした虐待については、怒りが根底にあります。倫理上虐待というものは、それほど論証を必要とすることなく否定されるようなものであり、している本人たちもたいていそれを頭で理解していることであろうとは思います。

ということで、ただ単なる虐待というものへの非難はほとんど意味を成さないため、虐待という行動の手前にある「怒り」のボルテージを下げるということについて、触れていきましょう。

暇つぶしと集中力の分散による怒りを消すという点について触れていきます。

とその前に、またまたになりますが、虐待の疑いがあった場合は189にお電話ください。

いちはやく189「だれか」じゃなくて「あなた」から(厚生労働省)

たたかれていい子どもなんて、いないんだよ。(厚生労働省)

怒りのボルテージを下げるための集中

保護者が子に対する怒りを生じさせる要因はいくつかありますが、その中に「欲に基づく意志や行為の阻害」というものがあります。

つまり「行いたい動きが阻害される」というようなものから怒りが生じるというような感じなります。

「やりたいことがあるのに邪魔をされる」「集中したいことがあるのに集中が分散してしまう」というような軽い怒りの蓄積が、作為としての虐待、不作為としての虐待を形成するという場合があります。

なので、そうした怒りのボルテージを下げるというか、怒りを生じさせないための集中のあり方について触れていこうと思います。

暇をつぶそうとすると怒りが生じやすくなる

家事育児と並行して暇をつぶそうとすると怒りが生じやすくなります。

「それは暇つぶしではなく必要なことだ」と思ったりもしますが、「やらなければならないこと」というものは、本来そんなにありません。暇をつぶそうと勝手に抱え込んでいるものが大半です。

一方、様々な家電やサービスが整う現代では、全ての家事労働も実際はそれほど労力を必要としません。

しかしながら面倒に思ってしまうことがあると思います。

本来、作業としては大したことのないことでも、億劫になってしまい、重い腰を上げられず、義務感と暗さでさらに疲弊と怒りが生じます。

そうした時には気力体力がないということもありますが、他に気がかりなことがある場合にも面倒に思ったりします。

さらに、気分が暗いのに「家事育児は気分を明るくしない」ということで、暗い気分をさらに暗くさせまいと、それを放棄してしまいます。

比較的マシな「暇つぶし」

では何かとてつもなく楽しいことがあるのか、気分を明るくすることがあるのかということになりますが、それも特にありません。

なので、比較的マシな「暇つぶし」のようなことを探し始めます。

そして暇つぶしをしているのに、その暇つぶしの集中力を阻害する横やりが入るとイラッとします。

その暇つぶしは、誰かとの連絡、SNSのようなもの、ゲーム、マンガ、買い物のようなもの、ニュースを見たり読んだりするというようなもの、何かしらの動画を見たりするようなこと等々です。外食というようなものも含まれるでしょう。

それらに必要性を与えることはできますが、本当によくよく考えると「今、必要」というわけではありません。今、必要なことであるという言い訳を自他にしているだけです。

「これ以上暗くなりたくない」ということで、必要なものかのように設定しているだけです。

「家事育児は自分を明るくしない」ということで、多少なりと気分をマシにしてくれるそれら暇つぶしを家事育児と同時進行でやろうとすると、逆説的に集中力の分散による怒りが生じやすくなります。

疲弊や鬱陶しいイラつきという怨憎会苦の上に、それを打ち消すようなものが叶わない求不得苦が加わるわけです。

刺激によって気分を明るくするという慣れ

暇つぶしの同時進行をしてしまう根本には、凡夫の「刺激によって気分を明るくする」という慣れが潜んでいます。

今までの経験上から「気分を高めようと思えば、何かの刺激を心に与える」というような方法論に慣れているという感じです。

「そんなことは当然だろう」

と思ってしまうと思いますが、だからこそ苦で溢れているということになります。

こうすれば楽しいという記憶の呪縛

こうしたものは「こうすれば楽しい」という記憶の呪縛により生じます。そして楽しさを求めるのは当然であるというような思いを持っています。しかし、そうした記憶は、今現在、求不得苦という苦しか生み出していません。

もし楽しい何かをしても、それは流れていきます。執著しようとも無常であるためどうしようもありません。そしてそうした記憶、執著はまた、それを求めているのに叶わないという苦を生み出します。

構造を分解して再検討する

苦痛な時間をなるべく楽にやり過ごしたいということで、怒りを打ち消すために多少なりの楽しみに触れて中和を意図しても、その集中が分散するのでより一層怒りが生じ、怒りの要因が子であると判断して、手を上げたり、世話を放棄したりするというのであれば、もう一度そうした構造を分解して再検討する必要があります。

基本構造は、「私はこれをやって気分を高めたい、怒りを抑えて、楽しく過ごしたいのに、邪魔をされた」という怒りです。

で、怒りの原因は何かと探し、子であるという判断をしてしまうという格好になっています。

しかし、本当の原因は子ではありません。

そうしたアイツこと自我の機能、判断です。

もちろん、いたずらやわがままを叱る等々はする必要があります。しかし、感情に任せて叱る必要はありません。自分の気分が良ければ穏やかに諭すのに、怒りに満ちていれば、必要以上の暴力に発展する、という不安定さいただけません。最も適切な行為を選択できない自分の精神を方を問題視していかねばなりません。

現実に集中して意識を向けることで暗さが消える

怒りのボルテージが高まってきた時、何かの刺激によって、自分の気分を高めようと思うと、その刺激に集中できないことから怒りがさらに増幅してしまいます。

怒りは暗さです。気持ちが暗いから、その暗くなっている原因やこの現状を排除したいという気持ちです。

普通は、そこで「明るさ」によって打ち消すことをします。

でもその明るさの獲得に対して、集中力が分散するため、うまくいかないという感じになっています。

しかしながら怒りのボルテージが高まってきた時、現実に意識を向け、集中力を高めていくと、暗さ、怒りが消えていきます。

これは「楽しい」という感覚で打ち消すのではなく、怒りそのものが消えていくという感じです。

明るさによる打ち消しをしなくても、単に怒りが消えていきます。

元の目的は怒りの解消です。「楽しいことに集中すれば解消される」というような不安定な方法論よりも確実性があります。

現実は今の一瞬しかありません。

怒りが生じていた状態は、一瞬で過去になります。

集中力があれば一瞬で消えますが、怒りに満ちている時、それほどの集中力は生まれにくいという感じになります。

ただ、集中しようと意志をセットすると、徐々に怒りが消えていきます。一瞬前の状態を少し引き継ぎつつ、どんどん次の瞬間が訪れるという感じでなめらかに怒りが静まっていきます。

そのうち怒りが置き去られていく感覚が生じます。

集中力を作るという面から考えれば、怒りのボルテージがある程度高まってきた時に集中力を取り戻すことを意図した方が良いでしょう。

最も意識が向いている動作を観察してラベリングする

最も意識が向いている動作を観察してラベリングしていくと、集中力が生まれていきます。

相手の右足にフォーカスするのであれば、相手の右足か、そこに手を伸ばす自分のその動作を短い言葉でラベリングして集中します。

相手ならば「右足」、自分ならば「右手」や「左手」等々です。

途中、スマートフォンが気になったら、「今、手を伸ばそうとした」と無意識から起こった衝動についてラベリングします。

それで衝動は消えていきますが、しつこい場合は、「『今』は必要ない」「『今』見ても無駄」というようなことを繰り返します。

子のごねた声が入ってきて怒りが生じた場合は、声に対して「音」とラベリングします。

「音が入ってきたが、すぐに流れた」という現実も確認します。

集中力が低い状態の場合は、それでも怒りが生じます。しかし集中力の高まりとともに徐々にマシになってきます。

怒り狂い、最初の最初が難しい場合は、一旦その場から離れて(まあよほどの状況でない限り1分~数分くらい離れても大丈夫でしょう)、目を閉じて「今」に集中し、深呼吸しながら呼吸に集中してラベリングするとスタートしやすくなります(吸う、吐くというような言葉でいいでしょう)。

なお、集中力が高まると、同じ作業でも疲れにくくなります。家庭レベルの作業など余裕で終わってしまいます。

鬱屈した状態の場合は状況を変える

基本的に、「他のことをやって暇をつぶしながら」ということは、暇つぶしに集中できないことに対する怒りが加わる可能性を孕んでいます(メッセージを打っている途中やマンガが面白いところで中断されたら怒りが生じやすくなります)。

しかしながら、全体としての状況を変えるということは問題がありません。

「なんだかこの状況は嫌だ」と思ったら、その怒りの解消の矛先を子ではなく状況に向けて、転換の創造性を発揮すれば良いという感じです。

まあ端的には、部屋の中にいて鬱屈した状態になるのであれば、子と共に散歩にでも行けばいいということになります。

しかしそれで出先にて「暇つぶしをしよう」とすると元の木阿弥です。

散歩は一石二鳥

散歩そのものについても、気づいた時にはなるべく最も意識が向いている動作を観察してラベリングするということを心がけていると、さらに怒りは静まっていきます。

歩く動作なので、基本的には「右足」、「左足」です。今動かしている方の足をラベリングしておけば事足ります。

「暇をつぶそう」という意志が生まれたら、「ああ、今、暇をつぶそうという気持ちが生まれた」と確認し、しつこければ「暇をつぶしても意味はない」というようなことを頭でつぶやきましょう。

(どのようなものでも想念が生まれたら、全て「想念」「妄想」とラベリングすると、さらに穏やかになります)

なお、歩くと感情の反応にかかわる扁桃体が静まり、やる気にかかわるドーパミンなども出やすくなります。一石二鳥です。

落ち着いたら環境を整える

落ち着いている時に、自分と相手(子)、双方が楽に楽しく過ごせるにはどうすれば良いか、というようなことを考え、可能な限り環境を整える工夫をするというのも、その後の怒りの高まりを抑制することができます。

「慣れ親しんだ楽しみ」をベースにした「暇つぶし」を意図するくらいならその方が賢明です。

自分がどのような状況の時にストレスを感じ、怒りのボルテージを高めてしまったか、ということを冷静な時に客観的に考え、対策をするというような感じです。その方が理性的です。

自らの精神以外に矛先を向ける事なく、解決策を考えていければ、怒りは生じにくくなります。

「時間の経過だけ祈って、同じような状況をぐるぐるしているというのもバカらしい」

と、理性が目覚めれば、状況はどんどん良い方向に向かうでしょう。

概念による支えは不要

世間的な倫理観や「かわいいと思えるかどうか、思えたらなら耐えられる」というような感情、感覚だけを頼りにしていたのでは、根本的な問題は解決しません。

倫理観は、「空観」や「善悪の証明の不完全性」といったアンチテーゼによって壊れ、「かわいいと思えるかどうか、思えたらなら耐えられる」という感情や感覚は、「かわいいと思えないのであれば耐えられない」という論理を含み、さらに「耐えられる」ということは、義務的でありさらに苦痛でしかないというものを含んでいます。

「ただ因縁によって生起した現象であり無常である」と明らかな智慧をもって観る時、ただの行為であり、淡々と流れていくということが観えます。

何かの概念に支えられなくとも、淡々とこなすことができます。

怒りが生じないか、怒りが生じてもすぐに流れます。

怒りがなければ、怒りによる傷害や放棄も生じません。

世の無駄な苦しみが少しでも無くなりますよう。


いちはやく189「だれか」じゃなくて「あなた」から(厚生労働省)

たたかれていい子どもなんて、いないんだよ。(厚生労働省)

「しないこと」への評価

Category:miscellaneous notes 雑記

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