愛憐の厚きに泪を流して

そういえば昔漢字のテストで、あしたのジョーの「泪橋」につられる形で「涙」を「泪」と書き、丸をもらいつつも先生に呼び出されたことがあります。

さて、普段それほど問題がないと考えられる「憐れみ」ですが、もちろん副作用として相手に憐れみ乞いの癖がついてしまうということが起こったりします。

そして一方で、手をかけた側には、ほんのりとした喜びのようなものが生まれるため、相互依存を生み出しやすくなるという面もあります。

これが自分のことを自分でこなす人よりも甘え上手のほうが好かれ、実際に自分の分を自分でやる人よりも、頼んでやってもらって感謝の意を示している人のほうが好かれるという現象を生んでいます。

ただそうした構造を捉えているので、個人的には甘え上手よりも自力で頑張る人の方が好きです。

甘え上手で、人にやらせておいてさらに好かれている妹肌よりも、ひとり頑張るお姉ちゃん肌の人の方が好きです。

そうして自立心があり、気の抜けない長女感のある人の「緊張が解け、少女の顔になる瞬間」を垣間見れた時の方が、甘え上手の策略的甘えよりも随分と美しく感じます。

それは「なんとか自分でもできるようにと自分で考え、失敗しながらでも自力で成し遂げた人に対して、最初から人に依存する前提で過ごしている人が評価されるというのはあんまりじゃないか」という思いが関係しているのでしょう。

愛憐により手をかけると手をかけた側には存在意義や生きる価値のようなものが生まれます。ということで、そうした生きがいのようなものをもたらしてくれる人のことに好意を抱くという構造は理解できますが、自力で奮闘した人が相対的に蔑ろにされるというのは、一種の差別的扱いであり、一つの歪みでもあります。

虚像たる自尊心が欠落した人にとっては、「頼られること」が自尊心充足につながったりします。だからこそ、頼る人が評価され、時にそれが商売にすらなるのです。

そうした世の中の構造を見ると「自ら何かを為す」ということが否定されかねません。「自力でやるよりもに人に頼っている方が評価されるのであれば、自力でやることは間違いなのではないか」という感じになってしまいます。

しかし、定言命法的に考えればそうした構造が成り立ちつつも本質的には誤謬であることはすぐに証明可能です。

社会的に考えたとしても、社会の構成員のすべてが「甘える側」、「頼る側」になっては社会が成り立たないという感じなので単純に「それは本質的には誤謬である」ということが成り立ちます。

相互依存にある姿は「弱者による戯れ」のように映ります。

時に一方では自立心を奪うものとして働き、また、一方では自尊心充足の手段として条件化され、共に心ほだされることにより、認知の歪みが生じ相互に依存することになることがあります。

そうした愛憐の副作用に足を掬われることなきよう。

愛憐の厚きに泪を流して。

憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。

Category:菊花の約

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