車の運転と同じように、視点は遠い方が安定し、またたくさんの方向をちらほら確認している方が安全に歩んでいくことができます。
あまりに手前の方ばかり見すぎると、感情が大きく揺れ動いてしまい、まさに動揺してしまいやすくなります。
既に無意識的動作となっている運転動作と同様に、日常のすべてが「無意識的有能」以上の領域になると、憂いはどんどん減ってきます。ただ、リスクがすべて消えるわけではないということを踏まえての「憂いのない運転」のような感じになります。
日常の9割以上は、遠くに視点を置くだけで基本的な感情の動揺はなくなりますし、ほとんどのことが問題ではなくなります。
意識を先の先に置く
意識を「先の先」に置いておくと、目の前の出来事に狼狽えることは減っていきます。
仕事上でよくあることですが、何かしらのプロジェクトが完了する時、納品する時などなどにおいては、相手側が「本当にこれでいいのか?」と焦ったりしてくる場合があります。
それは「終わりに対する焦燥」として、終わってしまうこと、固定化されること、世に公開されることなどへの恐怖心という感じになります。
洋服選びひとつとっても同じような焦りが生まれ、結果、購入する服がなかなか決まらないという感じの出来事も起こったりしています。
しかしながら、架空的な感じでもいいので、「これは中間地点である」というような空気感があると、そうした焦燥感は落ち着いたりします。
架空的な感じすら出せないのであれば、「より本質的な目的の方に意識を向ける」という感じで視点を変えたりすると、焦りというものは沈下していきます。もちろん架空的な感じと同時に行っても問題はありません。
そして、恐怖心発端の「焦り」があると、恐怖心を消し去ろうとして自他ともに粗探しが始まったりもします。しかしその時、感情が優位になっているため、あまり合理的な改良が起こるというわけではなく、どちらかというと嘆きやそわそわ系発端のロクでもない案しか浮かびません。そしていずれにしても後味が悪くなります。
という感じを防ぐため、という理由も含めて世のサービスには「アフターフォロー」というものがあるのでしょう。
「これで終わり」となると、不安が残ります。どれだけ完璧なものを持ち出しても起こってしまったりします。
という感情を静めるためという意図を含めての「アフターフォロー付きサービス」なのでしょう、と思うことがよくあります。
「僕はいずれ事業家になるんだ」という軸
そんなことで思い出すのが、「僕はいずれ事業家になるんだ」という軸を持って歩んだ20代です。小学校の卒業文集にすら「将来の夢 実業家」と書いていたくらいなので、20代どころか12歳からそう思っていたわけです。
そんな中ですが、20代の頃は、ふとした時に大学の先輩のような人と会うたび、「bossu君、経営者の夢は?」とよく冷やかされました。
つまり「どうせ口先だけだろう」という侮蔑がこもっていたわけです。
「もし力になれることがあれば手を貸すよ」というような建設的で優しい感じではありません。
少し先に社会に出て自尊心がボロボロになった自分を高めようと、やや脳筋体育会系の人が、「おまえみたいなもんが…」的な感じで「経営者の夢はどうなってんの?」と聞いてきたりしたわけです。
しかしながら、僕の中では、「僕はいずれ事業家になる」ということを「知っている」くらいの感じだったので、そんな先輩の言葉に反応することはなく、「そのうちですよ」とさらりと返したりしていました。
どうせそうした言葉しかかけられないような人の世話になることはないですし、そのレベルの人は、概して他人を世話をできるほどの力もありません。
ということで、特に気にすることもなくという感じでした。
こんな時、何クソ根性を出してしまうことがあります。
しかしながら、言い返すために「すぐに実現しなければならない」などと思ってしまうことは、相手に合わせたようになってしまうと構造を持っています。ということは、突き詰めるとそんな厭味ったらしい先輩の都合に合わせて人生を設計するということになってしまいます。
先の方に意識があると捉え方が変わる
また、「僕はいずれ事業家になるんだ」というような軸を持っていると、バイトにしろ学業にしろ、その後の勤め人時代の仕事にしろ、全てが予備訓練的な扱いになっていったりします。
世間では「時間の切り売り」と称されたりしているようなバイトの時間にしろ、実体験として様々な経験を得るという学習の時間にすらなります。それは直接的な実務のみならず、収益構造や、対人関係のあり方、各種制度的なことの把握、さらに言えば契約書テンプレート的なものをチェックし「必要となるような重要箇所はどこか」というようなことを学ぶというものを含め、様々なことが学習の対象となったりします。
「どうせ事業家になるんだ」
とつぶやいていると、些細なことは気にならなくなりますし、あらゆるものが「お金をもらってする学習」に変化します。
そうなると、ちょっと嫌味を言われたくらいであれば何とも思わなくなります。
それすらも「こういうタイプの人は、こういう感じで物事を解釈するんだなぁ」というデータ収集にすらなっていきます。
それはその後の、「見込み客の判断」の目利きなどに役立ってきます。なので、その場は少し嫌な感情が走ったとしても、結局プラスになります(プラスにしているのはこちらであって、相手が素晴らしいというわけではないのですが…)。
そのような感じで、遠くの方に意識を向けていると、感覚的にはあらゆることが「大事の前の小事」になります。
すると感情的に動揺することは格段に減ります。
分散型の種蒔き
また、対象が一つのことに集中していると言うか、「重要性の高いもの」として一つの事柄にのみ意識が向いてしまうと、失敗の方に気を取られてしまいます。
ということで、例えば、一人の見込み客がいて「その人との交渉が終わった後、予定が一切ない」という感じになると、その交渉に緊張してしまったりします。
ところが、その相手との交渉の数日後にまた違う相手、その数日後にまた違う相手、と先々に予定が入っていると、一つの事柄に向く意識が分散します。ということで分散型の種蒔きをしておくことで、重要度の分散から緊張が和らぎます。
といっても、ひとつずつにある程度以上の集中力を注がないと、結局全てダメになるということもあるので注意が必要です(就職が決まらない人にありがちな感じがします)。
一気に大量の人に連絡を取ると「返信なし」が気にならない
そういえば、20代前半の頃、「もうそろそろみんな勤めだしているだろう」と、いろいろな職業に就いたであろう、いろいろな同級生に話を聞いてみようと、一日で30人くらいにメールを送ってみたことがあります。その大半は返信がありましたが、数件は返信がありませんでした。
しかしながら、やはり意識が分散しているからか、「返信なしが気にならない」という感じになりました。
普通に考えると、もしその「返信なし」だった相手にだけ連絡をして、返信がなかったとすれば落ち込んでしまっていたかもしれません。少なくとも「もう友情は決裂したのかもしれない」と思ってしまいます。
という感じになりますが、一気に大量の人に連絡を取ると、返信がなかった数件について、全くに近いくらい気になりませんでした。
当然ながら、「返信あり」だった人に対するさらなる返事に追われていたので、気にする余裕もなかったという感じでもありました。
重要度の高い出来事が終わると集中力が切れる
ひとつのことにあまりに意識が向きすぎてしまうと、その出来事が終わった途端に集中力が切れてしまいます。気が途絶えるという感じです。
もちろん間に緊張からくる焦りも生まれますし、終わった途端に気がスコンと抜けてしまいます。そうなると、次に腰を上げるのが重くなってしまいます。
そうして一度停止してしまうと、動摩擦力と静止摩擦力の違いのように、なかなか前に進みにくくなってしまいます。
新しいものを発見しに行くということすら億劫になりますし、日に日にどんどんやる気が無くなっていきます(というような現象が起こるからこそ、次に行く勤め先を決めてから辞めた方がいいと言われたりするのでしょう)。
例えば、職場を辞めるということにしても、「ひとまず辞める」というところばかりに意識が向くと、退職の日から数日で一気に気力がなくなってきます。少なくとも、勤め先を退職した後に何かしらを控えていた方が気力のガタ落ちは避けることができます。例え遊びの予定であっても、何かしらは予定しておいたほうが良いような気がします。
分散させることが向かない対象
という感じで、意識を先に置いておいたり、分散型の種蒔きをしてみたりすることで、感情的な「動揺」という面ではある程度対処していくことができます。
しかしながら、分散させることが向かない対象というものも少なからずあります。
例えば、我が子や孫が複数人いるからといって「一人くらいは別に大切にしなくていいでしょう」ということにはなりません。
特定の好きな人に対する思いについても同じようなものになります。
理由は単純で、対象には固有性があり代替性がないからです。
しかしながらそれは苦をもたらす執著の対象にもなります。
その一方で苦を得ること、動揺することに関するリスクを恐れ、全てを先に、そして分散させる形で取り扱うというのもまた恐怖心がもたらしています。
「苦の消滅」から観る意識の置き先と分散
以上は、日常の感情的な動揺への対処としての一般論でしたが、ついでなので、「苦の消滅」から観る意識の置き先と分散について触れておきましょう。
残酷なようですが、一種の意識の意識の置き先として「苦の消滅」という感じで、「心が苦(dukkha)を受け取らない」ということを意図する場合、構造上、完全な分散として、一切に対する重要性をフラットにすることが必要になります。つまり、「固有性があり代替性のない対象」への重要度を他のものと同等にするという感じになります。
それはおそらく一般的な感覚から言語により導かれる形では理解が不可能となる領域になるはずです。
端的には、仲の良い肉親と道端の蟻を同等に捉えるということですから、論理で納得し、そうあろうとしても、意識を操作してできるものではありません。
しかしながら、「心とは何か」という構造を、一種の直感により理解し体感すると、そうしたものへの抵抗はスッと消えていくでしょう。
最終更新日:
こんばんは。
心に沁みるお話でした。
しかし、3日坊主の自分にとっては
遠いところにゴールを置くと、モチベーションが湧かなかったり、逆にいつまでもノルマのように追っかけられ、達成されない苦しみを生むことになるのではとも思いました。
もちろん、[それがどうした]のように何があっても、動じない、強く生きていくためのツールにもなると思います。
とりあえずの方向だけを定めるような感じで抽象性を持ち、さらに究極的には「どちらでもいい」というような感覚で取り扱うと、達成に関する苦しさもなく、淡々と過ごすことができます。
近くにある個別具体的な目標すらも、何となくの雰囲気や見える範囲での情報から導いた判定結果により設定されたようなものであり、確定的で絶対性をもったようなものではありません。
それに意識が向きすぎると、絶望的に見えてしまいますが、それも元々は曖昧だったのだと思うと、「どちらでもいい」というような感覚がやってきます。
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「逆にいつまでもノルマのように追っかけられ、達成されない苦しみを生むことになる」というような感じは、「能動的に、また、自発的にやっているようで、生存本能によりやらされているだけ」というような生苦の範疇に入ります。
「遠いところにゴールを置くと、モチベーションが湧かない」というのも、モチベーションを基準とした苦楽で考えればやはり生苦の範疇に入ります。
「何かしらのゴールを定めなければモチベーションを保てず、消極的で怠惰的な苦を受け取ることになる」というような感じになっています。
論理構造を利用した自我の騒ぎであり、「条件を外すために」と条件を加えるという狡獪なやり方です。
しかし一方で、意識の置き先や分散に関する苦楽の構造も成り立っているという感じで八方塞がりになってしまいそうな感じになっています。
ということで、そうしたものを突き詰めていくと、どんどん哲学的となり、究極のゴールは、この「心」の「苦からの脱却」というような感じになったりします。