悲壮な人々と素朴な人々

胸をたたいて悔み、自分自身を悲惨で卑小だと感じる観客のことを考えるあの楽しみのために、悲壮さを示しうる機会をひとつも見のがさないことは、極めて高貴でない習慣であるかもしれない。したがって、悲壮な状態を嘲笑したり、その状態のとき自分にふさわしくない振舞をしたりすることは、高貴な心のしるしであるかもしれない。フランスの古い軍人貴族は、この種の高貴と洗練を身につけていた。 曙光 386

悲惨な状況の時、どういった振る舞いをしているでしょうか?

「悲惨だー大変だー」というのが普通です。でも普通が正しいとは限りません。

僕の友人でお父さんが「僕たちは家族としてやっていけません」といってどこかに消えてしまったという人がいます。彼が小学生の時です。

その友人に対して、ある人が「不幸だなぁ」と言いました。

でも彼は、「そんなことは僕の心が決めることだ」と言いました。

「誰がどう考えても悲惨な状況だ」

という状況があったとしましょう。

確かに誰がどう考えても悲惨な状態です。

でも、そこで面白い但し書きをつけようと思います。

「アイツ目線で考えればね」

普通、人は何かが起こると、何かの行動で解決しようとします。

ビジネスでうまくいった人は、自分の成功体験を理論で説明しようとします。

しかしそれは屁理屈であったりします。

それはアイツ目線の後付だからです。

ということで、悲惨な状態になった時についてでも書いていきまうす。

悲惨な状況の時

普通は悲惨な状況の時の心理学的なテクニックとしての対処法なんかを書くのでしょうが、僕はそんなことはしません。

なぜならそれはほとんど屁理屈だからです。

では悲惨な状況の時、どうすればいいのか。

それは何もしないことです。

となると、これは対処法ではありません。

対処法とは、何かの問題を解決するような方法論のことです。

でも、「何かの方法を実行しなければいけない」という固定観念こそが、煩悩の元凶だったりします。

で、そうなると「こんな悲惨な状況なのに、何もしないでなんていられない」と騒ぎます。

誰がですか?

アイツこと自我が、です。

では、そんなアイツにとって、まだ受け入れられそうな表現で書き直してみます。

「することを止めなさい」

でも、次は「することを止める」ということを条件にしようとします。

ということで、別の表現をします。

「完全であると知りなさい」

なんかイエス兄さんみたいになってきましたね。

でも、切り離された第三者としての誰かにどうこう「してもらう」ということではないので注意してください。

で、祈りとかアファメーションみたいなので、言葉を使ってアイツを黙らせるということが旧来からの儀式として利用されてきました。

しかし、そうなると一時的には騒ぎを落ち着かせることに成功しても、次にアイツはそうした事を条件にしていきます。

「解決策への奔走はしなくていい。でも祈りは必要」という風に。

で、その次に「祈りはうまくいっているだろうか?」という不安を発生させていきます。

だからせっかく「何もしない」ということに気づけても、ここぞとばかりにいつまでも、どんなものでも利用してくるのです。

言葉を使わずに、行動もせずに明け渡す

ということで、言葉を使わずに、行動もせずに明け渡す感じで、「完全だと知る」という風になってください。

前回の「目的か?意志か?」で示したような今に集中してみて、安心感に浸ってください。

でもそれを条件にしてはいけませんよ。

で、どんな状況でも

「まあなるようになるだろう」

というような感じで、過ごしてみましょう。

あとは、そんな安心感に沿った、自動的に最適化された現実が展開していきます。

悲壮な人々と素朴な人々 曙光 386

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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