放棄する

その所有の一部分を放棄し、その権利を断念することは、―もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。 曙光 315

何でもかんでもですが、「所有すれば喜びがある」という点にだけ着目している場合があります。しかし、所有すれば憂いがあります。

喜びはその場は文字通り喜びですが、維持継続したい、失いたくない、またもう一度味わいたい、などなど、たくさんの「気になること」が増えていきます。

「喜びがあるんだからいいじゃないか」といいますが、そんな喜びはいずれどこかに消えてしまう喜びです。いや、喜んだと思った瞬間に消えていきます。

喜びの体験の記憶

記憶の中で思い返して臨場感がまたやって来たならば自慰的にまた喜びのようなものがやって来ますが、その喜びは永続するはずはありません。

ある喜びの体験の記憶は、後々の状況と比較する材料にもなります。つまりそれが原因で、後々に起こる状況などを相対的に判断する材料となる、そしてそれが現状の不満を呼び起こすということがあります。

つまり喜びは喜びですが、憂いの種になるということです。

所有は対外的な説得材料

本来は何も所有することができません。所有だと思っていることはある意味で対外的な「説得」であり「権利の主張」ができるというような程度です。

例えば車を買ったとしても、その車を他の誰かに処分されないための(「処分」は廃棄だけでなく使用という意味もあります)説得材料としての名義や領収書などがあるだけで、それがあれば「あなたのものです」と言ってくれるのは、その構造を許容している人たちだけです。

例えば、紛争などが起こって所有物が強奪されれば、その強奪した相手にはその説得材料である権利の主張は意味を成さないということになります。

ということは所有とは一体どういうものでしょうか。その「所有している」という意識は一体どういうものでしょうか。

あくまで他人への説得材料であり、恐怖心克服のための「こういう証拠があるから奪うのはやめてね」というような勝手な意識です。

いつどのように何を所有したのでしょうか。

そうなると何にしがみついているのでしょうか。

現実的に所有の意識を和らげていく

所有しているという意識は、身の危険を想像することによって起こる恐怖心発端の意識です。

しかしそんなことを言ってもなかなかその恐怖心は克服できるものではありません。恐怖心と戦って勝つ、というようなイメージをしている限り戦って勝つのだから「安心感」を所有したいということです。ロジックを一周りして騙そうとしてくるアイツのやり口です。

そんな思考合戦よりも体感のほうが早いでしょう。

まさに所有していると思っているものを、まずはレンタル・リースに変えてみてはいかがでしょうか。

物も実際に使っている時間など知れています。

スマートフォン編

まずはスマートフォンをお持ちならアプリケーションを削除していきましょう。

その際は、使う使わないを一旦無視して、まずは「半分に減らす」とだけ思ってみましょう。何が何でも半分に絞ってみてください。必要なら再インストールするはずです。そんな手間は知れています。同じように写真画像もパソコン等にバックアップ後、ひとまず「スマートフォン」に入っているものを半分にしてみましょう。

それができたら、バックアップをとってもいいですから、電話帳に登録された連絡先を半分にしてみてください。それでも必要ならまた入れなおすでしょう。

半分にしたまま半月か一ヶ月くらい過ごしてみてください。

特に何も困らないはずです。

車を持たない レンタカー編

これは比較的都市部の方にしか通用しないかもしれませんが、マイカーを売ってすべてレンタカーで過ごしてみてください。

「自家用車があるから」と思ってしていた生活パターンが、自動で自家用車がなくてもなんとかなる生活パターンになります。

「子供の送り迎えが」

と思っても、深夜でもなし、昼間なら公共交通機関や自転車で何とかなります。昔、小さい時の話ですが、自家用車があっても習い事などで多少遠方まで行く時は独りでバスなどで行っていました。

小学生にでもなればそれくらいはできるはずです。携帯電話などがなかった時代ですが、困ったら交番にでもいけばいいのです。

住所と電話番号を記したものでも持っていれば、おまわりさんは助けてくれるでしょう。おまわりさんでなくても、コンビニの人でもおそらくおまわりさんを呼ぶくらいはしてくれるはずです。

ということは、「子供の送り迎えが」は理由になりません。

後進国とされる国の子供は十キロ離れていても走って学校に行っています。足がついているのだから、その足を使えばいいのです。そのことを忘れてはいけません。

最初は不便かのように感じますが、逆に追々それだけ車のためにやらなければならなかったことから解放されていきます。

そんな感じですごしていると、

「なんだ、年間数回しか要らないじゃないか」

ということがわかるかもしれません。

もしかしたら

「全く必要がないかもしれない」

ということになるかもしれません。

少なくとも「必要」ではありません。なければ死んでしまうというわけではないですから、「必ず要る」ということではないはずです。

持っているからこそ、それに合わせたパターンに意識が集中する

持っているからそれに合わせたパターンに意識が集中するということです。

最近、スマートフォンから普通の携帯電話に変えましたが、何一つ困らないどころか、スマートフォン・携帯電話に意識を奪われる回数が大きく減りました。

それだけ楽になりました。ツールを減らせば減らすほど仕事も楽になりました。

もはや携帯電話すら持ちたくないのですが、取引先に「さすがにそれは勘弁して下さい」と言われてしまいました。ということで、仕事をしているうちは厳しいのかもしれません。

最初は不便に感じるものも、そのツールのお陰で無駄に意識がそちらにセットされ、「これは本当に自分がやりたいことなのだろうか?」と思うようなことをやらされていた、ということに気づけるかもしれません。

国家をできるだけ少なく!

放棄する 曙光 315

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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