思索家の廻り道

多くの思索家にあっては、その思索全体の歩みは、厳しく、仮借(かしゃく)なく、大胆であり、それどころか、時々自分に対して残酷である。しかし細部にわたると、彼らは穏やかでありしなやかである。 曙光 530

アイツこと自我は、危険回避を中心に汎用性の高い法則を好みます。

そういうわけで、若いときから様々な物事に対して「どうやったらいいんだろう?」という疑問がわくたび、「バッチリな答えはないかなぁ」なんてなことを思い、思索を繰り返してきたのではないでしょうか。

一人で思索することもあれば、誰かに相談して知恵を借りようということもあると思います。

ただ、僕は19歳の時から「大半の人の意見はあてにならない」ということを確信してしまいました。

その理由は非常に単純で、哲学的な思索の対象を「疑問に思わないことが不思議」と思ったのと、もう一つ何かにつけて「適当すぎる」という印象があったからです。

時間は虚数のような虚像

何かにつけてたいてい「時間だけは絶対にある」というところからスタートしています。

「時間をどのように捉えるか」は、哲学的な思索の対象としてすぐに思い浮かびそうな対象であるはずですが、たいていの人は、「時間だけは絶対に存在する」という前提で話をします。

でもこれは数学における虚数のようなもので、あくまで思考の中の印象ながら虚像を例えとして使わないと、特に特定の命題を紐解くことはできず、他人にも伝わらない、といったものなのだ、という感じです。

確実性を持っているのは「今」だけであり、時間や時間の流れは一種の解釈にしかすぎないのですが、ストーリーを組んだり、人に何かを説明する時、「昨日」や「明日」という概念を持ち込んでしか説明し得ないという感じです。

「生きていくため」という伝家の宝刀

世の中では、「生きていくため」という理由をつければ、すべての思索が完結するということを思っている人たちがたくさんいます。言わば伝家の宝刀です。

ある人たちは、仕事を「面白くないもの」と定義し、「休日の趣味に生きる」というような事をしていました。

で、そこで思ったのが、「面白くもないなら、そんなことを繰り返してどうするんだろう?」というようなことです。

単純に「生きていくため」という弁明が来ますが、「では、面白くもないのに、なぜ『生きていくこと』は必須事項になっているのか?」ということをよく考えたものです。

「生きていくため」と言えば、誰もが頷くだろう、という感じでしょう。

これが「適当すぎる」と思ったポイントです。

何かにつけて、「生きていくため」という伝家の宝刀を振りかざせば、それ以上の議論にはならないという人たちに辟易しました。

「思考が回りすぎてしまう」タイプの苦悩

もしかすると、若き日のシッダルタもサーリプッタも、これと同じような苦悶を抱えていたのではないでしょうか。

たくさんのタイプの人がいますが、こうして「思考が回りすぎてしまう」タイプの苦悩を持った人も、タイプとして必ずいると思います。

結局、最終的に辿りつく答えはシンプルで、それまでの思索や迷いがバカらしくなるようなものですが、もしかすると、そうした廻り道が必要な人もいるのかもしれません。

必要というわけではないですが、ストーリーとしてはそう展開せざるを得ないのかもしれない、といった感じです。

思索家の社会から

思索家の廻り道  曙光 530

思考の罠

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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