崇拝者

いたく崇拝するあまり、崇拝しない人を十字架に掛けるような者は、自らの党派の絞首刑吏のひとりである。― たとえこの者と同じ党派であっても、われわれは彼と握手しないように注意する。 曙光 355

「いたく崇拝するあまり、崇拝しない人を十字架に掛けるような者」

世界中どこにでもこのタイプの人がいます。気に喰わない場合は、晒し者にしたり、時に抹消したりするタイプですね。

何度も触れていますが、そういったことは全てアイツの内にいるからこそ出てくる考えです。

これが宗教の嫌がられる最たるポイントです。

「どうせなら」ということで、この際、僕が活字中毒に走ってしまった最たる原因の一つである18歳のときの出来事を、当時を思い出しながら書こうと思いましたが、僕一人だけの話でもないような気もするので、いずれまたの機会に限定公開でもしましょう(⇒第1000回投稿記念で公開しました)。なお、活字中毒に走ってしまったのはもちろんこれだけが原因ではありません。

元々「カルト」とは何か熱狂的な崇拝があるというような意味があり、宗教であれ科学的な主義であれ、その崇拝者はカルト信者だと定義することができます。

崇拝者は、何かを崇拝することで心を落ち着けているので、その心の安らぎの成功法則から逸れるものに対しては激しい怒りを起こしてきたりします。

エルサレムにて

そういえば、イスラエル旅行記の方でゲーセンの話を書きましが、エルサレムに行ったとき(イスラエル旅行記 エルサレム)、そのゲーセンのすぐ近くで壁にもたれかかっていたら、現地民か観光客かはわかりませんが、ひとまず日本人ではない人におそらくヘブライ語か何かで怒鳴られたことがありました。

壁を見てみると、おそらく「イエスが十字架を背負いながら一度倒れた場所」というような旨と推測されることが書いてありました。

それはそれで「そうですか」ということになりますが、別に意図的に踏みつけたとかガムをくっつけたとかそういったことでもないのに「何を怒っているのか?」というような印象を受けました。

原理主義者が嫌われる理由はそういうところです。

「自分が信じている対象を信じない人は、殺戮した方がいい」

そういった発想になるのでしょう。

さらに言うと、不敬を示すためにとか、アンチであることを示すためにとか、いたずら目的でというものならまだわかるような気もしますが、何も知らずにもたれかかっただけで何をそんなに怒っているのか、というような気分になってきます。

僕からすると「ただの壁じゃないか」ということになるのですが、宗教に洗脳されたような人たちからしてみれば、それはただの壁ではないということになるのでしょう。

しかしそれで怒りを生じさせることが幸せなのでしょうか?

「怒りの発動条件を増やしただけじゃないか」

とすら考えることができます。

崇拝の対象が全知全能ならば

まあよく聞くようなことですが、根本的に小学生でも疑問に思う点があるはずです。

「あなたが信じている対象は全知全能ではないのか?」

「全知全能ならば何でそんな事が起こるんだ?」

ということです。

「全能」ならば、一瞬でそういう人を無くすこともできるはずですが、なぜそれができないのか、という点を必ず疑問視するはずです。その崇拝の対象が全知全能ならば、できないことは無いはずです。

そういった意味で「聖戦」というものは、そもそも根本から理屈が通りません。「何で?」病が始まったばかりの幼子でも問うような疑問です。

まあ根拠は書物で、疑っているからこそ無理やり信じ込もうとする「信仰」と合わせて、起こっている現象です。

と言いながら、別に説得する気もありませんから、どうでもいいことです。あくまで主義は主義の内、絶対性などどこにもありません。

盲信と崇拝

元々カルトとは熱狂的な崇拝というような意味があります。対象は宗教だけではありませんが、定義上盲信と崇拝というものがある状態という感じになっています。

基本は胡散臭いカルト宗教ですが、宗教という様態を取っていなくても、何かを盲信し崇拝していて原理主義的になっているのであればそれはカルトです。

しかしいかに本人が崇拝しようが、信仰というもの、信じるということは疑っていることの証でもあります。疑いを信仰の力で支えているという構造になっています。

洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた

崇拝者 曙光 355

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ