多くの人たちは、公然たる悪人となるか、あるいはひそかな憂苦のにない手となるか、を選ぶにすぎない。 曙光 408
昨日、独りで散歩しました。その時にふと考えたことは、どうしても、「人は人に合わせると実力を発揮できない」というようなことです。
ふと今まで働いてきた数々の仕事を思い出しました。
自分を自由にさせてくれる上司の場合は、人の倍くらいの結果を残し、親切心で何かと教えてくれる上司がいる場合は、逆に「甘え」が生まれ、「やり方の制限」がかかり、人の半分くらいしか本領を発揮できなかったというようなことを思い出しました。
すべてを「お任せ」にしてくれる人から受けた仕事では、最高の結果が現れ、人からとやかく指図された仕事ほど、制限がかかり、実力の半分も出せないということがよくありました。
ただ、相手からすると、「ツッコんでおかないと、手を抜くかもしれない」という不安感があるのでしょう。
しかしそうされればそうされるほど、サービスでやっておいてもいいようなことであっても、下手にやると、その「サービスでやったこと」に対してツッコミが入ったり、それを通常サービスの範囲だと思い込む人たちも出てきます。
だから、「できてもやらない」ということが積み重なって、結果実力の半分も出せないということが起こっていくのだ、ということを考えました。
知らぬ間に与えてしまう制限や甘え
同時に、僕が関わると大半の人はダメになっていきます。
それはおそらく、自分が「親切心のある上司」と同じようなことをしてしまうからでしょう。
ある種の快適さを与えることで、相手のポテンシャルを潰してしまうということを無意識的にしているのだと思います。
知らぬ間に制限を与えながら、知らぬ間に甘えを生じさせ、また自らにも制限を与えているような気がしました。
同情の禁止
そう言えば、先日の社長仲間の件(精神の暴君たち)も同じような感じでした。人に親切にすることで、人を堕落させていく、そんな落語のようなパラドクスです。
その社長仲間も、結果的に元従業員になめられました。
やはりその奥には、相手の気質だけが問題なのではなく、どこかしらの自愛不足があるのかもしれません。
そう考えると、まさにニーチェの言うところの「同情の禁止」が真実味を帯びてきます。
自己犠牲的な利他精神は、それが100%の純度を帯びたものでなくとも、結果的に対象を崩壊させていきます。
100%自己中心的に、主体性を持って考えないと、結果的に物事が変な方向に向かっていくということです。
諸行無常で触れていますが、諸行無常であるからには、何事も結果がどうあれそれはそれっきりです。
だからこそ、「相手の都合を無視する」という感じでも十分です。
そういうわけで、ビジネスにおいては「相手に一切選ばせない」というのが一番やりやすいというようなことに気付き、その方針で行くことが決定しました。前から朧気ながらそう思っていましたが、もうそれ以外受け付けないことにしました。
道端ですれ違った同級生
散歩中にふと思い浮かんだのは、以前に道端ですれ違った同級生のことでした。
小中学校の同級生、高校の同級生、数人の顔が浮かびました。
小中学校の同級生
先日の群馬行きの際、朝に「小中学校の同級生」と道端ですれ違いました。僕は相手を発見して相手も僕を見つけました。
でも無視です。
実は彼とは数年前にゲームセンターでも会いました。
頭文字Dのゲームをしに行ったときのこと、彼は何か格闘ゲームのようなものをしていました。
今では無くなりましたが、そのゲームセンターの向かい側に昔ゲームセンターがあり、小学校高学年の頃から彼とはよくその場所に遊びに行ったのです。
いわばゲーム仲間であり、そんなゲーム仲間とゲームセンターで再会したのだからということで、当時やっていたゲーム機も店内にあったので、「久しぶりに対戦でもどう?」というようなことを言ってみました。
すると、返事をしたのかしていないのかわからない感じで、彼はその場を去っていきました。
中学校卒業後も、何度か彼の家に行ったことがあります。
特に彼に会いに行ったわけでもないのですが、お母さん同士が仲良かったので、20歳を過ぎても、おつかいがてら彼の家に行きました。最後に行ったのはおそらく二十代半ばの時、そんなに昔ではありません。
その時は、挨拶程度ですが、元気に接してくれました。
でも、その直後に彼のお母さんは病に倒れ、数年前に亡くなりました。
そんなこんなで、それから会うことも無かったのですが、ゲームセンターでたまたま会ったのです。
その間、僕は彼に何もしていません。
彼との間に何かがあったわけでもないので、気軽に声をかけてみたのですが、結果は「ほとんど無視」という感じでした。
僕の力が及ばないところで、なぜか彼との間柄は壊れてしまいました。
小学生の時には、一緒に自作のすごろくを作って毎日遊んでいたにも関わらずです(眠る感覚との再会)。
高校の同級生
また一方、数年前の話になりますが、地元を少し離れたところの祭りで高校の同級生に会いました。
むしろその同級生の地元付近です。
高校卒業以来だったので、元気に声をかけました。
でも、先の小中学校の同級生と同じような反応で、一応反応しているものの「ほとんど無視」でした。
その人は女子ですが、別に卒業前にその人と何かがあったわけではありません。卒業時には一緒に写真を撮ったりした仲です。
むしろ、一年生の時はデートしたほどの仲です。誕生日プレゼントを贈り合ったりもしました。
せめて普通に接してくれればいいものの、ひどいほどの対応でした。
何がいけなかったのでしょうか、それが僕にはわかりません。
僕の知らないところで、何かダメな要因があったのでしょう。
しかし原因もわからぬまま、なぜか知人よりも遠い存在になってしまいました。
友だちでいたかったのに
そうした出来事が不思議でなりませんでした。
僕はただ、普通に同級生として「友だち」でいたかったのに、もう友だち以下どころか「すれ違う人以下」です。
友だちだったのに、なぜか友だちではなくなってしまった人たちです。
「なぜなんだろう?」ということを考えても、別に改めて友だちになりたいとも思いません。だから別にいいのです。
でも、もしそんな人と次に同窓会か何かで再会した時に「やっほー!」的なことを言われたら、もうどうしていいのかわかりません。
もうそんな人の気分に合わせるのもバカらしいとしか思えません。
―
やはり、人と人の仲など、「使い捨て」なのでしょうか。
別に執着するわけでもなく、僕はいつまでも「友だち」でいたかっただけなのですが、どうもそれは叶わなかったようです。
単にその場で少し懐かしんで、すぐに「バイバイ」という感じで十分なのですが、僕が何かをしなくても仲は壊れ、それが叶わなくなることもあるのです。
同窓会に来ない人
他の同級生に会った時にそんな出来事を話してみたことがあります。
すると、同級生の誰に対してもそんな感じだということでした。
ただ、不運続きで意気消沈しているということでした。
で、おそらく「同窓会に来ない人」とされる人たちと同じように、充実した人生を送っていないと自覚していて「最近どうしてんの?」と聞かれるのを恐れていたのではないか、ということでした。
すると、僕はそうしたことで自尊心を奪おうと思うような人に見えたのでしょうか。
友だち相手に、現状でどうのこうのを判断するような人間に見えてしまったのでしょうか。
もしどこかで会ったら「友だちやないか」と言ってやることにしましょう。
もし諸行無常故に、人と人との仲が「使い捨て」であっても、また友だちになればいいじゃないか、そんな感じで過ごせたらなぁと思っています。
寛大がひろく必要なところ 曙光 408
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