諸行無常

メインテーマとしながらも、投稿数の少ない哲学テーマですが、あえて「諸行無常」についてでも書いていこうと思います。

諸行無常について、仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸行無常の正確な説明、解説というのを期待されるよりも、この諸行無常(しょぎょうむじょう)というラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。

日本において諸行無常という言葉は、平家物語の冒頭にある「諸行無常の響きあり」という部分のイメージが強すぎて、本来の意味での諸行無常を捉えること無く、印象的に「そういえば街も様変わりしたなぁ」とか「諸行無常ゆえ親が死ぬのを受け入れなくてはならない」というような形で捉えられていることがあります。

しかしながらそうした、大まかな期間の経過や情緒的な概念ではなく、諸行無常の肝心要である「瞬間としての今の変化」をベースとし、この理をどう捉えるかというところを哲学的に紐解いていきます。

以下、この諸行無常について、仏教用語として、仏教特有の概念として言葉の意味を考えている部分もありますが、宗教的、主義的なことを議題に上げず、学術的に正確な意味を捉えるのでもなく、諸行無常というこの当然の理を元に、何かを掴み取っていただければと思います。

諸行無常の概要

それではいきなりですが、一般的な諸行無常について、概要として大まかに定義すると、「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」といった感じです。知っている人は知っているような感じですね。

  • 「諸行」⇒因と縁によって生ずる全ての現象
  • 「無常」⇒固定的ではない

ちなみに因縁のうち「因」は直接の原因、「縁」は間接的な環境条件という感じで捉えておいていただけるとわかりやすいかもしれません。

ただ、「行」に関しては、「形成作用」を示すという捉え方もあります。「色受想行識」なんかで考えられるときは、「意志作用」というように捉えられたりしています。

なお、諸行無常は、万物流転と混同されがちですが、確かに近いものではあるものの諸行無常と万物流転は少し異なった概念となります。諸行無常の行は「形成されたもの」ですが、万物流転の物は物理的現象というニュアンスが強い、という点がその差異となります。

仏教経典等の書物に記載されていることを根拠としたり、学術的な定義を書くと、言語の定義による混乱が出てくるので本質から離れるリスクがあり、避けたいところですが、諸行無常自体が漢文発端の仏教用語として出てくるものなので、仏教的な諸行無常に少し触れておきます。

諸行無常と諸法無我、一切行苦、涅槃寂静

諸行無常は、パーリ語では「sabbe saṅkhārā aniccā(sabbe sankhara anicca)」と表現されます。諸法無我(諸法非我)一切行苦(一切皆苦)涅槃寂静と合わせて、三宝印、四法印としてよく語られます。

そのうち諸行無常の概念が登場するもので代表的なものは、ダンマパダ(法句経)の277に登場する次の部分です。日本語訳で有名なものを引用させていただきます。

「『一切の形成されたものは無常である』(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」(ダンマパダ 277 中村 元 訳 岩波文庫)

「『すべての行(もの)は無常なり』と かくのごとく 智慧をもて知らば 彼は その苦をいとうべし これ清浄に入るの道なり」(ダンマパダ 277 友松 圓諦 訳 講談社学術文庫)

なお、諸行無常は一切行苦と諸法無我と合わせて語られるということで、ダンマパダにおいては連続性を持って語られていますので余談ながら引用しておきます。

一切行苦については、

「『一切の形成されたものは苦しみである』(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」(ダンマパダ 278 中村 元 訳 岩波文庫)

諸法無我については、

「『一切の事物は我ならざるものである』(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」(ダンマパダ 279 中村 元 訳 岩波文庫)

諸行無常の解説の多くは、諸行無常の「諸行」に対し、諸々の物や出来事、つまり現象という感じで捉えられていますが、さらに厳密に考えた場合は、この行は「形成作用」や「形成されたもの」という意味を持ちます。

それは「諸行」を客観的な現象として捉え、必ず変化があるというような無常を示すだけでなく、諸行を現象を捉える場合の「形成作用」を含んだものとして捉え、「客観的物理的な現象というものを認識する働き」を踏まえた「形成されたもの」として捉えることが本質的な諸行無常です。

「行」の前後に「触」という言葉が出てくるときもあると思いますが、それらを踏まえて考えた時の「行」については後述しましょう。「意図」と「ゲシュタルト」のような印象で触れていきます。

ひとまず、常に生滅を繰り返しつつ、因と縁によって生ずるすべての現象、というものに対して、「それは何か」ということを把握しています。

でも、そんな一連の流れも、その「何か」についても、固定的なものではないということから、まずは捉えてみましょう。

簡単な定義はこれくらいにして、少しだけ普段に置き換えて進めていきます。

出会った瞬間に別れることは確定している

対象が物であっても、人であっても、経験であっても、状況であっても、その対象がどんなものであっても出会った瞬間に別れることは確定しています。

諸行無常を日常で感じるのであれば「出会った瞬間に別れることは確定している」ということを見逃さないようにしましょう。

道ですれ違った人とは会うのが今日が最後かもしれませんし、もしかしたら明日かもしれません。

ただ、そんな人とも初めて会った瞬間に「いつか来る最後」というものが同時発生しています。

家族や友人、上司、部下、同僚とも出会った瞬間から「いつかは別れる」ということが決まっています。もちろん物でも同じです。諸行無常は「常に変化する」ということ示しながら、出会ったものとは必ず別れるということ、生じたものは必ず滅するということを示しています。

今日と明日で違う人

これはイメージしやすいので、そんな風に表現してみましたが、もう少し深く考えると、今日のその人と、明日のその人は、全く同じではありません。

今日会ったときには、長髪でしたが、明日は短髪になっているかもしれません。

と、そういう変化も変化ですが、さらに細かく言うと一秒前と今では、体の水分含有量も違いますし、昨日と今日では、もし昨夜に何かの本を読んでいたら「昨夜に読んだ本の内容」に影響を受ける前と受けた後という違いがあります。

およそ生じたものは必ず滅し、生ずる性を持ったものは滅する性を持つというのが諸行無常ですが、出会いと別れがセットでくっついているということでもありながら、同じ人であっても常に変化しているので「今日のその人とは今日お別れ」ということでもあります。そして今日という大きな単位だけでなく、「瞬間ごとに出会いと別れを繰り返している」ということになります。

必ず変化があり、同じではなく「近いもの」

そんな感じで、全く同じものではなく「何となく近いもの」という感じでしかありません。接するものはすべてその場限りのその状態であり、必ず変化があり全く同じものではなくて「近いもの」ということになります。

そう考えると、どんな人とも次に会うときには「だいたい同じだが少し違う人」と会うことになります。

ということは、同じ人と会っているわけではなく、何となく同じような人とまた新たに出会っていると考えることもできます。

一期一会

一期一会という言葉がありますが、これは本来諸行無常を表し、その瞬間の状態は一度きりであり、二度と同じ状態を捉えることはないという意味になります。なんとなく同じような、近い状態である「同じような状態」を経験することはあるかもしれませんが、今のこの瞬間の状態は一度きりであり、もう二度と経験することはないという感じです。

例えば座って画面を見ている間でも、必ず体は細かく動いていますし、体の水分量も疲労感も、ほんの微差ですが変化しているはずです。だから、全く同じ状態にあることは叶わないという意味で一期一会です。そしてそれは諸行無常の示していたりします。

必ず終わりが来る

物事を大きく考えた場合でも、何かの対象と出会った瞬間に「終わり」が訪れることは確定しています。

それは死別というケースでどちらかが先に死ぬという場合もありますし、再会する予定がキャンセルになり、それっきりで結局再会せぬままという場合もあります。

ということは、どんなシーンでもその対象を感じているという場面はそれが最後になる可能性を含んでいます。

物が壊れれば、それでその物とはだいたいお別れです。インテリアとして飾っておいたとしても、「物として使用する」という意味ではお別れです。その瞬間がいつかはわかりませんが、いつかは必ずやってきますし、物であれば見えないところで徐々に経年劣化が起こっていて、別れのカウントダウンが始まっています。

そのような感じで、大好きな人とも、出会った瞬間に別れることは確定しています。

「それは嫌だ」と思っても、それを変えることはできません。

と、これは大きく考えた場合ですが、先の例のように、同じように見えるものでも「だいたい同じ」であり、全く同じものではありません。

ということは、この瞬間に感じたものも、一瞬先にはもう別物になっているのです。

別物になったということは、自分がとらえた「それ」とは既にお別れしている事になります。

と言っても生きている上では「だいたい」で十分です。社会は「ある程度の蓋然性の高さで良し」として成り立っていますから、「何となく同じ」で十分です。特に問題視されることはありません。

ただ、「だいたい同じ」であって「同じ」ではありません。

そして、「同じかどうか?」というところを判断するためには、前後を比較する必要があります。

そして、それには記憶が必要になります。

さらに記憶には記憶の主体が必要です。そして、過去の記憶というモノを現在に引っ張ってくることがなければ比較ということはできません。

形成作用としての「行」

「行」ということで、諸行無常の「諸行の行」について、形成作用としての行、意図とゲシュタルトらへんからのアプローチでお送りしていきます。

因縁による現象を「万物」みたいに捉えるのであれば、諸行無常という言葉も、少し違いますが「諸色無常」なんてな表現になりそうなものです。

諸行無常の行を「万物」や「様々な現象」と捉えている解説が多いようですが、おそらくそうしたものを意図するのならば、「行」という表現はなされないと考えられます。

それで、詳しい解釈や解説というものは、議論したい人や研究したい人たちだけで盛り上がってくださいと言うかたちで、特に厳密性を考えずに、書いていこうと思います。

諸行無常の「諸行」の「行」については、先程見たように「形成されたもの」という訳がついている場合があります。

この「行」を「万物」や「様々な現象」と捉えるのではなく、形成作用、形成されたものと捉えることで、諸行無常という理が見えてきます。

色受想行識

この心が対象を捉える場合にはプロセスがあります。それは五蘊という風に表現されたりしますが、この五蘊は、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊というものであり、これを表した「色受想行識」というものを見聞きした人も多いでしょう。

今回は諸行無常についてなので詳しいことについては割愛しますが、「諸行」の「行」とは何を示すのかという解釈のヒントになる部分ですので少しだけ触れておきます。

このうち、色については、「形あるものすべて」という意味になります。ということで、ものを示すのであれば、諸行無常という表現ではなく諸色無常になりそうなものだ、という感じになります。

では、残りの受想行識とは何なのかについて見ていきましょう。

まずは、仏教経典の中で「受想行識」について触れているものについて触れておきます。

サンユッタ・ニカーヤには次のような部分があります。

「『感受作用』(受)は、我(アートマン)ならざるものである。

『表象作用』(想)は、我ならざるものである。

『形成作用』(行)は、我ならざるものである。

『識別作用』(識)は、我ならざるものである。

修行僧らよ、汝らはどのように考えるか。物質的なかたちは常住であるか、あるいは無常であるか」

人が何かを思ったり考える時、先に何かに触れてそれが何かを捉えるところからスタートするはずです。

対象が物の認識であっても、目を閉じれば何も見えずに、「そこにある」という認識ができないように、物事を認識するときには、ただそこにものがあるだけでは成立しません。

概要として「受想行識」はそうした認識する働き、心が対象を受け取るに至るプロセスを示しています(五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦))。

そういうわけで、「行」という字から話を進めてみます。

「行」

この字も、ただのモニタの白と黒の光の差です。

この光の差をひとつのまとまりとして「漢字だ」とか「ぎょう、と読む」とか、「漢字の意味としては、行くとか行うとかそのへんだ」とか、そういったことを把握するには、これらをまとまりとして、何かの意味を与えるという必要があります。

漢字を全く知らない外国人としては「おそらく何かの文字である」というくらいにしか思えませんし、動物なら何かしらの模様くらいにしか思わないはずです。植物なら、目がないのでこの光の差すら認識できないでしょう。

音声であっても、いきなり知らない人が、「ぎょ」と言ってきて、10年後に「う」と言ってきた場合、おそらくそれらはつながることがありません。

何かのまとまりとして捉えるということ、ゲシュタルトなんてな表現をされますが、それが無いと目に映っても、目に映るという以外の反応はほとんど起こりえません。

そして例えば、諸行無常の「行」の意味を捉える時、「行」という漢字の意味や定義をそれまでの知識で見て解釈する場合、意味も変わってきます。

その場合の諸行無常に対する印象も一種の「形成されたもの」として考えることができます。

各字の意味をまとめ上げて認識するという感じですからね。

ということで、「形成されたもの」というものは、ある種の客観を含んだ主観的なものです。

「形成されたもの」の例としてマガーク効果などがわかりやすいですが、視覚情報と音声情報が組み合わされて認知されたりします。

そういうわけで、諸行無常の「行」は、物や現象という感じではなく、認識のプロセスにおける「形成作用」や「形成されたもの」を意味します。

さて、五感で何かを感じて、それは何かということを捉えたところから意図がスタートします。

だからこそ、触れることがなければ、そして、触れたとしてもそれに意味がなければ、その場を流れていくだけなのです。

それに意味がなければというよりも、それを「何か」として捉え、その何かに意味を与えないと、何のきっかけにもならないのです。

ということで、意図が起こり「因」となる手前段階のプロセスのうち、どれかが無くなれば「因」は無くなります。ということは結果は生じません。

諸行

ということで、諸行無常のうちの「諸行」、因縁による全ての現象を「感じる」というか、心が捉えるためには、「五感で対象に触れる」ということや「意識」としての情報が起こらない限りは、何も心に入ってきません。

そして、触れたとしてもそれが「何か」であるという意識の中でのゲシュタルトがなければ、ただ触れた分だけで終わりです。

そこで一般的な諸行無常の解説のように諸行の行をただの物や現象と捉えるのではなく、「行」を「形成されたもの」と捉え、諸行を「諸々の形成されたもの」、「一切の形づくられたもの」と捉えることが重要になってきます。

諸行無常の「諸行」は「一切の形成されたもの」であり、それは「自分以外の対象物」というわけではなく、「その対象物を捉えること」や「何かをやろうと思った」という意志の発生などすべてが今形成されたものであると捉えておくという感じです。

「因」が「因」であるためには

何かに触れ、それが何かであると捉え、判断し、その何かを解釈し、それに対する思考が起こり、反応としての感情が起こる、という場合の「因」が「因」であるためには、全てのプロセスが成り立っている必要があるのです。

そういうわけで、例えば特に関心がないスポーツの結果がスポーツ新聞に書いてあって、コンビニを出る時に、その成績が目に映っても、喜びも怒りもしないはずです。

ところが自分はそのスポーツに関心があり、応援しているチームがあり、そのチームが負けたということを捉えた場合には、怒り等々何某かの感情が起こるという感じになります。

そういうわけで、生きている限り、何かは目に入り、何かは耳に入り、暑さ寒さは体感し、手足で物に触れ、どこにいてもニオイは感じ、食べるとき、飲む時には味を感じます。

それらはたったそれだけなのですが、意識の上で何かを条件としていくたび、それ以上の反応の要因を作ることになります。

無常

そんなこんなで、今この瞬間の出来事は、今瞬間で終わりであり、滅することでまた生じるという感じになっています。諸行無常の「無常」は、固定的ではなく、「常に変化し、流れている」というような意味になります。

「一切の形成されたもの」は常に変化しています。それは対象となる物も変化していますし、受想行識のプロセスにおいても各部分で変化があるはずです。

物の変化に限ってみても、目の前のコップの水の量は常に蒸発によって変わっています。その水を見る目の水分量も変化しています。「疲れて視力が落ちてきた」という感じであれば、見え方も変わるはずです。

そして、「どの位置から見るか?」ということも体のバランスを保つために少しずつ体は動いていますから、常に視点は変化しています。もちろん窓から入ってくる光の量も変化しています。自分の体が動くことによって光が反射する角度が変わり、コップに向かう光の量も変化しているのです。

ただ、どの段階であっても今は今です。

ところが、連続性を感じています。

そうして連続性を感じているからこそ、「時間はある」という印象を持っているはずです。

生滅

生滅を考えた時に、例えば、呼吸にしても息を吸って肺がいっぱいになったから、身体は吐こうと思い、吐いたということも考えられますが、諸行無常なのだから、そんな限定をするまでもなく、瞬間的に全てが生じ、滅し、また生じという感じになっているはずです。

「生ずる性質を持って生じたものは、滅する性質を持ち必ず滅する」

という感じです。

諸行無常ゆえに変化があるから生じ、変化によって生じたものは変化によって滅するという感じになります。

諸行は無常であるということは「作られたもの、作られつつあるもの、生じたもの、生じつつあるものは、滅する性質を持ち、一切の形成されたものは必ず変化する」というようなイメージです。

また、ラッセルの世界五分前仮説なんかでもわかりやすいですが、世界のすべてが5分前に生じたという場合でも反駁できないはずです。

なお参考までに世界五分前仮説は、5分前に環境を含めたすべての状況や自分の記憶、世界中のみんなの記憶などが発生したと仮定した場合という感じです。

これは5分前どころか、1秒前でも論理を覆すことはできません。

そのように考えると「『過去からの記憶』自体が今の瞬間に生起したものである」という論理を覆すことができません。

毎瞬間ごとに「記憶」をセットにした今が生じて滅し、滅して生じるという感じになっているという感じです。

記憶の連続性

で、物事はそれが変化しないこと、固定的であることを求めたとしても、瞬間ごとに「だいたい同じ」であって、全く同じ状態というものは自分自身でも叶ったことはありません。

わが事で考えてみても、同じような姿勢をしていても、「同じような」というだけで全く同じということにはなりませんし、同じ気候条件というのもありません。

まして「同じ時間」ということは、「時間の存在」を認めているならなおさら論理上不可能です。

常連さん、お待たせしました。ここでアイツこと自我が登場します。

先ほど、「だいたい同じ」であって、「同じ」ではない、「同じかどうか?」というところを判断するためには、前後を比較する必要があり、それには記憶が必要になり、記憶には記憶の主体が必要で、過去の記憶を現在に引っ張ってくることがなければ比較ということはできないと言うようなことを書きました。

そんな感じで、諸行無常自体はただの事実なのですが、「あの人は、こんな人だと思っていたのに」というようなことをアイツがやりだすのです。

そうしたことを思い、煩うには、記憶と印象、時差的な比較が必要になります。

諸行無常は嫌だ

諸行無常なのは、別に好き嫌いにかかわらず、時間の解釈がどうあれ変えることができるものではありません。

「ただ、そうなだけ」という感じです。

諸行無常はただの理(ことわり)です。個人的な趣味や主義、論証が不十分な宗教的教義ではありません。極めて哲学的で論理的な理です。「知らないから関係ない」というようなものではなく、どうあがいても仕方のないような領域です。

そこで、厄介なのは、「諸行無常は嫌だ」というケースです。

「君と僕との愛は永遠さ」

「この気持ちをいつまでも」

という場合ですね。男女の間柄において永遠であって欲しいというようなものです。

しかしながら、出会った瞬間に別れることは確定しています。

それをアイツが

「嫌だ!」

と叫び出すわけです。

でも、諸行無常を厭いながらも少し考えてほしいことがあります。それは、諸行無常であったからこそ二人は出会ったということです。

そして厳密に言えば、今誰かと会っていても、一秒後には別の人になっているはずです。

今のその人とはこの瞬間に出会い、別れているということすらできます。

そこで出てくるのが記憶の連続性です。

ある対象を捉えた時、その対象に対する印象ができます。

その印象を快いと思うか、不快と思うかによって、次回の反応が変わります。

本当はその対象との接触からまとまりの形成、印象の形成から感情までのプロセスは一瞬で生じ一瞬で終わっています。

ところが、そこで生存本能としての判断基準をつくります。

身の危険を回避することを前提に、汎用性の高い法則をもちたがるからです。

不快であれば、「不快だから避けよう」、快ければ「もう一度、できればずっと」というふうに。

そんな感じで、記憶を作り、連続性から時間を作り、時間軸の中での比較対象を作り、その瞬間の現象に意味を与え、執着を形成していきます。

全ては固定的ではなく、ただ、その場で起こりその場で流れていく現象に解釈を作り、その記憶の連続性の中から執着を作っていきます。

現象は無属性

諸行無常ということで、すべてはその瞬間の現状、その瞬間の状態、もっと言えば情報の状態です。

情報と言っても、数値や言語で示すような具体的なものではなく、五感やその瞬間に働いている意識の情報という感じで、その情報の状態が全てです。

そして、その状態を認識する働きが「心」です。

仮に何も考えていなくても、例えば立っていれば足の裏には何某かの刺激があるはずです。視覚障害がなく目を開けていれば何かは見えているでしょう。耳をふさいだとしても、心音か何かは聞こえるはずです。

そんな五感の刺激を常に心は受け取っています。

そしてそれらには善悪もクソもありません。無属性です。

「眩しくて不快だなぁ」という快さや不快という属性はありますが、「どちらのほうが正しいか」というような基準はありません。

五感に限って言えば、眩しいという視覚というよりも触覚的な不快感は別として、何かを見たとしてもただそれが見えているだけです。

その「それ」に意味を与え、何某かの思考が働き、その思考故の感情に煩いを感じること、それが無駄な煩いです。

アイツこと自我は敵なのか?

五感からの情報や意識の状態というものも諸行無常ということなので、その瞬間の情報状態に対する五感の情報以上に、対象に属性を与え比較を始めだすと煩いの元となります。

ただ、体のことを考えた場合、自分の意志とは裏腹に勝手に喉は渇きます。諸行無常で変化があるからこそ、体としても必要な水分が減っていって、水分を取る必要が生じてくるという感じです。

その時には勝手に意図として「水を飲もう」という一種の「因」が発生します。

「水を飲もう」というのは漠然とした意図であって、厳密には「水分を摂ろう」であり、その裏には、この喉の渇きという不快感を解消したいというものがあるはずです。

それをさらに深く考えた場合は、水分を摂取したいという欲であり、喉の渇きという不快感に対する怒りと考えることができます。

だから、

自分か他人かと言えば自分の身体ですが、ある意味自分で考えたゆえの意図ではありません。

でも、意図は自動発生しました。

そして現象が展開します。

その際に、視覚や触覚という対象に「触れる」というところ、そしてそれが「水である」という認識、「この『水』を飲もう」という判断と決断、そして実際に飲むという行動というプロセスが無いと、喉の渇きは癒えません。

諸行無常に対する抗いともとれる、煩いのプロセスはどうあがいても、こうして現実の展開の際には辿らざるを得ません。

そういうわけで、「煩いの元となるアイツを滅ぼす」といってもアイツは敵というわけでもなく、生きている限り自分の一部として一体化せざるをえないのです。

諸行の行をもう一度

ここで諸行無常のうち、諸行の行をもう一度考えてみましょう。

「因縁による全ての現象」

と考えた場合に、大前提が忘れられていることがよくあります。

この心が機能しないとすれば、あの「受想行識」といったプロセスが作用しないとすれば、現象はあってもなくても同じで、この心としては無いのと同じことになるということです。

五感という入口が無ければ、何が起こっても無いのと同じです。

そして客観的にあるといくら力説されようが、この内側、この心としては何も感じないのだから無いのと同じです。

ということは諸行無常の諸行が因縁によるすべての現象、ということであっても、あの認識プロセスとそれを受け取る働きである心が無ければ、「現象」というものは、仮に客観的にあったとしても無いのと同じことです。

ということは、現象はあのプロセスによって、そしてこの心によってある種「作り出されている」ということです。

しかしながら、その「作り出されたもの」は、この瞬間の体感とともに、瞬時に滅し、また作り出されています。

意識はオリジナルではない

そして、その作り出すプロセスにおいて、意識が介入しています。意識が介入しながら、心が受け取っています。

しかしながら、意識はオリジナルではありません。

誰かから教えてもらったり、嫌でも情報として入ってきたような事柄、つまり体験の中の情報や本能に組み込まれた情報などが集合し塊となり、自動で演算しているに過ぎません。

そして、ある現象を捉える時、例えば複数人が同じような経験をしていても、各々受け取るものは必ず異なるはずです。

ということは作り出されるものも異なります。

そして、それらは無常ゆえ、同じものが二度と作り出されることもないのです。

全ては移ろいでいく、ただそれだけ

で、諸行無常の肝心要は、「全ては移ろいでいく」ただそれだけです。諸行無常は、仏教用語として、仏教としての「主義」や「信仰的なもの」とは一切関係なく、ただ当然の理であり、人の考えにかかわらず変わることのない法則へのラベリングとして考えることができます。

同じ人が同じようなことをしても、同じ経験は二度とできません。

何をやるにしても、初めてと二回目では、必ず印象が異なるというところから、ずっと同じような状況ということはありえないというところはもちろん、瞬間的に全てが移ろいでいく、ということがただ当然の理としてあるだけです。

「諸行は無常である」というと難しく感じることもあるかもしれませんが「作られたもの、作られつつあるものは滅びる性質を持つ」ということを示しているというような感じになります。

執着しようにもできない

諸行無常が示すように、全ての現象は固定的ではなく移ろいでいく朧気な現象にしか過ぎないので、執着しようにもできないはずですが、そうした理を頭で理解しながらも、どうしても執着に纏わりつかれ、煩いを起こしてしまう場合があります。

その原因は、現象を捉える際のプロセスにおける意識の介入です。

記憶の印象による過去との比較

何事も、初めてのことでその背景などを全く知らなければ、素直に捉えることができそうなものですが、大人になればなるほど、知識が増えれば増えるほど、純粋な感覚は失われ、欠点や矛盾、合理性なども目につくようになります。

その場の現象は、その場の現象限りのはずで、その場で起こった現象に何かの意味を与えなくても、その場で終わるはずなのですが、「今後のために」という記憶づくり、「かつてはこうだった」という過去との比較、そうした記憶の印象を発端とした意識の働きが、必要以上に現象に意味を与え、無駄な感情や無駄な次の因たる「意図」を作っていきます。

少なくとも、その場の現象はその場限り、その場で起こった思考や感情も、その場に置いていくという感じでやり過ごしましょう。

諸行無常を体感し、その場の現象はその場限りで執着しようにもできないということを体感すると、そのうち、幸せは加点方式ではなく、本来の100点にくっついた無駄な色眼鏡の「削ぎ落とし方式」であり、条件化こそが煩いのボスであったことがストンと落ちるかもしれません。

ただアイツは、無邪気にあなたのことを思い、様々な条件を作っていきました。

小学生くらいの子供が、「いちまんえんさつ」と書いた紙を作ってプレゼントしてくれていた、という感じです。

お父さん、もしくはお母さんが喜んでくれるだろうと思い、色々と知恵を絞ってプレゼントしてくれたという感じです。

そんなアイツをそっと抱き上げて、「ありがとう」と言って、なでなでしてあげましょう。

Category:philosophy 哲学

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