寓話の現実化

いつか読んだ寓話が現実となるようなことがたまにあります。

それらはあくまで例えが現実的になるという感じですが、寓話も誰かが創作したものでありながら、その創作においては現実の体験のシーンたちが少なからず反映されているので、別におかしなことでもありません。

そうした印象やシーンにイメージを向けたからこそそれがよく見えるということもありますが、そうした認知的な話だけでなく、「見えやすくなっただけ」という説明だけでは説明しきれない形で物事が実際に起こることがよくあります。

それは概要のみがそろっていて具体的なところは想定外というときもあれば、イメージのままという時もあります。

養子のうさぎとの出会いもそんな感じでしたし、突然我が家にやってきた宗教勧誘のお話もそんな感じでした。マキバオーのことを思っているとターフィーのハンドタオルがやってきた、というのも近いかもしれません。

まあ物理的制約というものもあるので、起こること起こらないことがありますが、だいたい思ったままのことが起きます。

それはそのままシーンとしてというよりも状態が現実に投影されるというような感じです。

構造の見え方のレベルに応じてということになるので、自我の解釈としては不可解に見えるということもあります。しかし、ある程度視野が広がってから振り返って考えてみると、本当に情報状態に対する反応という感じに思えるような出来事は今までに何度もありました。

思ったままに出来事が起こればそれでいいのかというと、そうでもないと考えられることはよくあります。根本的な煩いを増やしてしまい、苦しみを継続させてしまうだけになるということがあるからです。

人との付き合いが一番わかりやすいと思いますが、「何だか違う」とか「もういいんじゃないかな」とか、「何となく重苦しい」と思いながら、それでも手放すまいとしている時、それは継続的に苦しさをもたらしてしまいます。

「もういいんじゃないかな」と思いを馳せ、心の底から本当に「もういい」と思った時、一気に心は晴れていきます。それがどう転ぶかはわかりませんが、どう転んでもいいと思っているのだから心は晴れやかです。

結局は、「ああ、どうにでもなれ」と思ったときの「ふっ」とした隙間、手放した感覚、瞬間的ではあるものの、いかなる執著にも心がかき乱されないような状態が理想的な状態です。

常日頃からその状態であれば、別に何かを求めて渇望するようなことはなくなります。

不足感のない状態であり、それが起きても起こらなくてもどちらでもいいというような平常心を保つことになるので、煩いがありません。

そしてそんな感じではありながら、そんな穏やかさに応じた出来事がやってきます。気持ちとしては「手に入っても入らなくてもいい」という状態のはずですが、結局平常心で手に入ってしまうという感じです。それどころか、それが何であるかを特定していなくても自然と必要なものは目の前にやってきます。

それでも息を吐けば吸うように、誰かに話しかけられれば、話し返すように、何かに応じて何かを返すという運動は続きます。

そのような感じで「ただ行為のみが残る」というのが理想的な状態です。

Category:笑う月

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