妄想は感情を知識がこじつけることで生まれる

妄想は感情を知識がこじつけることで生まれるということで、謎のスピリチュアルとかカルト宗教のカルト臭い論理と感情について少しだけ触れておこうと思います。

世の中にはそうしたものに違和感を感じている人も多いと思いますが、それでも一定数気が狂れたように盲信している人たちもいます。

そうした霊魂系の話は、多少なりと具体的に示し得ないメタ領域的な要素を含んでおり、具体論で論駁しても示し得ない領域のため決着がつきにくかったりします。そして、なぜかつじつまが合っているようなこともあるのでさらに論駁がしにくかったりもします。

またこうした構造はマルチ商法や自己啓発等々カルト臭い空気を持ったものに汚染された人に共通しています。スピリチュアル、カルト宗教、マルチ商法、胡散臭い自己啓発、それらを俯瞰してみれば、「感染している」という感じに映るはずです。

よくこうしたものにハマった人たちの周りの方からご相談を受けますが、なぜそうしたものにハマるのかというところのひとつの解釈の仕方としてお伝えしておきます。

別に抵抗する必要もないのですが、こうした妄想はつまるところ何かしらの感情に対するつじつま合わせであると考え、論理で負かそうとか説得しようとするより、感情を手放す方向で検討してみましょう。

感情のつじつまを合わせる

妄想は感情や感覚を思考上の知識でこじつけることから生まれます。

まず先に、不安感、劣等感、罪悪感などの何かしらネガティブな感情があると考えましょう。もちろん身体的不快感という感覚ベースのものもあります。

それに対する解決策的なものとして、意味不明な論理が展開されている知識によってつじつまを合わせているという感じです。

罪悪感と妄想

例えば、まず罪悪感があって、それに対してカルマの教義などがハマり、苦しむことで罪悪感を昇華していくという感じです。

自分の中で思考的に納得したい、納得した上で罪悪感を無くしたいという感じであり、感情を思考でやりくりしようとする言い訳づくりのためという感じです。

カルマの教義とは、苦しめば苦しむほど、罪や悪のポイントが減る、つまり負債が減るというような考え方です。元はバラモン文化やその延長のヒンドゥー教などの発想ですが、近年のスピリチュアリズムにも見られる理屈です。

何かしら罪悪感があるということは、罪を犯したという意識や後ろめたさ、疚しさを抱えているということになります。

そんな感じで、何かしらの理由があって先に罪悪感があり、それをどう解消するかというところに、変な教義の知識がピッタリとハマった、ということで、変な宗教にハマったと考えましょう。

すなわち、罪悪感という感情、そこからくる感覚としての不快感をどうにか解消したいという意図を持ち、その解消策として「自分が苦しめば許されていく」というカルマの教義にハマってしまったという構造になっています。

劣等感と具体的に提示されたハウツー

次に、例えばマルチ商法であれば、劣等感が先にあります。

そうした苦しい感情、それに伴う身体感覚から逃れたいという意図を持っています。そんな中に提示された具体的なハウツー、それがマルチ商法だったという感じです。

そのようにして俯瞰して単純に考えれば、なぜそんなものにハマるのかということがすぐに見えてきます。

「単なるつじつま合わせじゃないか」

ということです。

イメージ上の代理的な構造

しかしながら多少なりと厄介なのが、イメージ上の代理的な構造であっても、罪悪感というものがイメージの上で消えた場合、その具体的な方法論が正しかったということを思っていくようになるという点です。

それには代替手段なり何なりがあったとしても、一度成功の味をしめると、そのやり方が正しいのだということで、その他の教義にも妄信的になる、それがカルト宗教の構造です。

例えば何かしらの不注意で人を傷つけてしまい「罪悪感」というものを持っていた人が、「苦しめば悪いカルマは消えますよ系」の胡散臭いカルマ教義を信じて、それを実行し、スクワットを1000回して「罪が許されていっている」となったりしたとしましょう

その後、ふと罪悪感が襲ってきた時に「私はスクワットを1000回したのでスクワット1000回分の苦しみは許されたはずだ」と自信を持っていくようになります。

これは、失業中の人が罪悪感により、それまで手伝いもしなかった家事を手伝い出すということとそれほど変わりありません。

「感情のやりくりのために知識でこじつける」

という程度です。

知識を得ていったから、結果的にそうなったというより、感情が先にあって、それに応じた情報を集め、そうして得た知識が妄想を作り出していくという感じで捉えておくと無難です。

無駄に起こる嫌な感情

基本的に嫌な感情はすべて生存本能としての恐怖心から起こっています。劣等感にしても、生命維持のための衣食住の不安定や仲間と承認されないことで起こる生命保存的な危機感などから来ています。

よくよく観察してみると、嫌な感情の大半は思考を通じて無駄に起こっていることばかりです。

限定的な偏った見方で世界を観ていることが原因になっています。双方向的なことになりますが、感情がありのままの現実を観ることを阻害し、ありのままの現実を観ることが無いゆえに無駄な感情が起こるという感じです。通常、そうした無限ループの中にいます。

ある空間での合理性のためのルールや、ゲームそのものを無駄に本気で捉えてしまって全てに適用してしまうような思考が、無駄な感情を呼び起こします。

一度起こった感情は、放っておくとエネルギーとして、後の何かしらの意欲として残っていきます。

そして吐出口がなくなったエネルギーが変な知識と結びつくと妄想となり、傍から見れば意味不明な行動へと駆り立てていくといった具合です。

感情は、思考でつじつまを合わせることよりもそれをしっかりと認め、錯覚だと見切り、手放すように解放していくという感じが理想的です。


感情を思考上の知識でこじつけ、つじつまを合わせて妄想が起こるということの例として、スピリチュアルや胡散臭い占い師、意味不明なカルト教義などにより、縁起が良い動物とか悪い動物という発想があります。

生理的な不快感や「本能が反応するという仕組み」から、それらのこじつけ具合を検討した後、妄想からある種の生き物に対して差別が起こるということの狂気について。

縁起が良い動物とか悪い動物という発想

占いに依存し、占い師の発言によって人生を導かれてしまう人たちの意識の構造について

占いを信じる人たちの責任転嫁の心理

Category:miscellaneous notes 雑記

「妄想は感情を知識がこじつけることで生まれる」への2件のフィードバック

  1. なんらかの自分にとって好ましくない、忌み嫌う出来事が発生し、それに伴う不安や恐怖を伴う感情を抑えたいがため、占い、霊視のようなもので、その原因は〇〇、だから、〇〇をすれば、よくなるはずとか、そんなことが起きたのは今がそういう時期であるだけで、〇〇年後にはそこから抜け出すことが出来るはずとか、それとなく辻褄が合っているような理由付けと対応策、なんの根拠がなくとも明るい将来の予測とか、そういう気休めを求めて、占い、霊視のようなものに依存しようとしたことが今まで、何度かあります。

    数か月前に気分が滅入ったときにも、無駄だろうと思いつつも、ネット上のHPで何十年の実績があることを売りにした霊視鑑定のようなものに、1万円かけて、見てもらいにいったら、ぱっと見た目がすでに胡散臭い上に、こちらの話はほとんどき聞かず、とにかく、こればまずい、なんとかしないといけないと恐怖心をあおってきました。

    そして、私が拝めば必ずよくなる、今まで、癌の患者で医者から見放された人を何人も治したなど、さまざまな成功事例を話しきて、途中から、こりゃ完全にやられたなと思う状況でした。

    鑑定料金は1万円/1時間とあったのに、私が拝んでもらう気がないことを見透かしてか、20分そこそこで話は終わりました。次のステージのお金が掛かる拝むメニューに移ろうとする意図があまりにもみえみえでした。これでよく、この商売を何十年も続けてられたものだなあと感じました。

    鑑定とやらからは全く何の得るものもなく、正直、騙されたという気持ち、なんともいえぬ怒りの感情、そして、こんなくだらないことに、頼ろうとした自分の情けなさがこみ上げてきました。

    この度の件で、1万円を捨てたわけですが、自分にとって、何があっても、一生、この手ものには絶対に手を出さないと決意するための良い機会だったと捉えることとしました。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      占い、霊視の類は結局、何かしらの感情、意欲、心的複合体を概念化・モデル化して解消するという感じになっている程度です。なので、胡散臭いながらも本気で盲信すると、概念化されたものが概念の上で変化したということが起こり、「病が治った」いうケースがあることもあるでしょう。が、それを実体的に扱うことは妄想です。
      例えば、何かへの執著が動物の霊というふうに概念化され、それが彼らのいう何かしらの高次の存在によってどこかに行ったという構造は、単に概念化された執著に対して起こる「無執着であろうとする意志や観察による虚像の看破」を概念化しているだけです。
      そうした構造でなにか特定の具体的な感情に対しては、時にうまくいくこともある可能性もあるという感じですが、次にはそうした概念に対する執著が生まれるという意味で根本的な解決にはなっていません。

      心で知ることになった、「なんともいえぬ怒りの感情、そして、こんなくだらないことに、頼ろうとした自分の情けなさ」についての「気づき」が大切です。

      起こった現象には手前に意図・意欲があります。それが現象をもたらします。意識の中で起こったこと、それが変化したこと、消えていったりまた現れたりしてくること、それらの発生と消滅を見逃さないように観察してみてください。

      「こりゃ完全にやられたな」という思いが起こることは一種の防衛機能であり、自我機能です。だから自我機能は苦しみをもたらしつつも、時に守りに徹してもくれます。その場所に行こうと思った時の感情状態と、その場の局地的な感情状態は全く別物だと思います。その時の冷静さを大切にしてください。

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