失敗の回避と立ち直り

重要なのは失敗を回避するということよりも、失敗した時の立ち直りの方であり、一応「失敗してもいい」ということを思うにあたって、失敗しない前提を持たずに、本当に失敗したときのことに対してどう取り扱うのか、再度挑むならばどう挑むのかということを想定しておく方が良いと思っています。

失敗を回避するという感じは消極的です。一応様々な準備をしたり想定を巡らすという点では理に適っていますし積極性がありますが、意識の上では消極性を持ちやすいという特性を持っています。

「失敗してもいい」という言葉をかけながら、失敗しないことを前提としていることがよくあります。ただまあ、だいたいは十中八九成功するのに、不安だけが募り募っている人の背中を押すためという感じなので、致し方ない面があります。とはいっても、結局成功ということにする「絶対に失敗がない文化祭」のような雰囲気を感じてしまったりするので、時と場合により、言葉には違和感を感じてしまうことがあります。

「失敗を回避する」という雰囲気の蔓延

さて、最近では事業者ともあろうものがどんどん自信をなくして「失敗を回避する」という雰囲気がどんどん蔓延しているような感じがします。それを後押ししているのが未知の状況と一種の行政依存という感じになるでしょう。

行政や大きな組織というものは、基本的に失敗がないということを良しとします。そして行政に至っては、収益自体が強制徴収であり、何かを生み出しているわけではなく集めたものを吐き出しているだけであり、結局うまくいってもいかなくても全体としては失敗の責任というものがありません。

そういえば、中学生の時に感じた「先生の言うとおりすれば、『先生』にはなれるかもしれないが、それ以外になれる保証はない」ということを改めて思ったりします。

それと同じように、公の仕事をしている人達に従っても公の仕事しかできません。そしてそれは「失敗を回避する」ということが中心となり、何かを出して何かを生み出すという創造性に欠いたものとなります。

それで成り立つのは仕組みとして「失敗を回避さえしていればいい」という枠組みの中だけであり、その空間の外では通用しません。

フリーライダーに対する公共性・公益性からの合理性等々から公の仕事は公の仕事として、それはそれでいいですが、それと同じような感覚をそれ以外の空間にいる人達が影響を受けてしまうと、様々な物事が成り立たなくなります。

様々な資金的吐き出し等々がありますが、結局のところ、実質的な資金としてありがたい面はあるものの、一部ではそれと引き換えに失敗の回避という意識の方向性や自信の喪失、発想の公務員化が起こっているような気がしてなりません。

保存の意図や依存が進むと、意識はゾンビ化します。

誰かに「よし」と言われなければ歩くことすらできないような存在になってしまいます。

失敗の回避に意識が向くと、その間は苦しく、また次には自発的に前には進めないような癖がついてしまいます。情報に一喜一憂し、意志決定ができないようになってしまいます。

「環境への適応」は、消極的に環境に合わせるということだけではなく、能動的な意志によって切り開くということも含まれているはずです。状況を把握するということは共通していても、その方向は真逆となっています。

立ち直りの早さの重要性

さて、少し現代に合わせたようになってしまいましたが、いつの時代も共通しているのが立ち直りの早さの重要性です。

以前、小学生が「悲しくて泣いていたと思ったら20分位で楽しそうに笑い出した」という姿を見た時、それこそが最大の強みであるということ思ったりしました。

誰しもがそれくらいに早い立ち直りをしていたはずですが、歳を重ねていくに従い、失敗を含めたショックを引き摺る時間が長くなっていってしまうということが起こったりします。

その要因のひとつは「新奇性のある出来事の少なさ」ではありますが、何よりも自我意識の強さによる「ネチネチした失敗の回避」というもののなさが大きな要因となっていると思っています。

「ネチネチした失敗の回避」を意図する感じは、ひとつはプライドの保全というものが影響していますが、それ以外にも「検討時間の長さ」やデジタルデバイスによる「情報が流れない感じ」などが影響を及ぼしていると考えられます。

臨場感が意識的な空間の方にあり、長い時間「答えの出ないようなこと」をぐるぐる検討しているからこそ気力を浪費してしまい、どんどん立ち直れなくなっていくのです。

ということで「失敗時の立ち直り」は、意識の中においても情報の上書き、重要度の変化が重要となります。そしてその早さに関しては、「意識的な検討」の空間から物理的で身体的な空間の方に臨場感を持つことと、「検討なんてしていないで先に体を前に出してしまう」ということが影響を与えています。

清々しさを大切に

そしてもうひとつは清々しさを大切にすることです。

何事も

「これでダメならやめてやる」

という感じで挑むと、成功したならそれでよし、ダメでも別にやめて縁が切れるわけですからそれでいいという感じになります。

ところが「住居・年金・出世」等々において安定を意図したライフプランを持っている人に影響を受けて「ライフプランの保全」を意図すると失敗の回避にしか意識が向かず、清々しく挑むということができません。

「失敗してもいい」とは言っていながら、その実「失敗しては困る」という感じになってしまうからです。

なので、失敗した時にまたウジウジしていまい、失敗を引き摺り、次の失敗を恐れ、それを回避することしか考えないような感じになってしまいます。

あくまでどうありたいかの意図が先にあり、思考はそれを「どうつじつまを合わせるか」に用いられるものとなります。

楽しみや喜びがどうも意図できそうにないのなら、清々しさというものに意識の焦点を当てると良いと思っています。

Category:miscellaneous notes 雑記

「失敗の回避と立ち直り」への5件のフィードバック

  1. はじめまして。
    はじめてコメントさせていただきます。
    そのため、ガイドは読みましたがどのような文体、作法で書けばいいのかよくわかっていないので失礼があるかもしれませんが、お許しください。

    この社会において「失敗を過度に恐れる雰囲気」がより濃くなっていることは実感しています。
    少し前の時代にはもう少し「失敗してももう一度挑めばいいじゃないか」というような活力があったような気もします。
    ではなぜこのような傾向が強くなっているのでしょうか。
    ・失敗の例が目につきやすくなった(インターネット上には、それまで隠れて見えなかった「敗者(レッテルでしかありませんが、人は自分に貼られたレッテルに引っ張られてしまうものです)」の言葉が表れるようになった)
    ・誰もが匿名で批判できる環境が整った(それを無視することもまたひとつの批判の対象になってしまう。批判というより攻撃という言葉の方が正しいかもしれない)
    ・記憶力の低下、あるいは向上。(嫌な事を忘れる力というものが人間にはあって、ニーチェあたりが『健忘』云々と言っていた覚えがある。記憶力が低下することによって、「忘れてはいけない」という過度なプレッシャーがかかっているという解釈もできれば、記憶力が向上しているので「忘れることができない」という解釈もできる。いずれにしろそれは意思ではなく能力によってもたらされた不都合であるのではないかという疑問)(人間は自分の意志で能力を「育てよう」とすることはできるが、その場その場で高めたり低めたりすることはできない。高い能力がゆえに苦しんだり、場合によっては死んでしまったりすることもある。精神的な能力に関しては、その事例がいくらかある)

    こう考えてみると、この現代において「失敗を過度に恐れること」は自然なことであることのように思えます。
    同じように「物事を過度に楽観的に考える傾向」を支持する考察をしたとしても、おそらく前者に軍配が上がるように思われます。
    人間は子供のころそうであるように、本質的に楽観的にものを見る傾向があります。そしてものを知れば知るほど、悲観的になることが多いと考えられます。人間は必ず死ぬものですが、子供はそれを信じていません。自分がいつか死ぬということを実感として噛んで消化することができません(例外はありますが、大半はそうでしょう。少なくとも私の幼少期はそうでした)
    そして情報が溢れる現代において、「失敗を恐れない」ということはもはや不可能であるように思います。死を何度も見続ければそれが実感として感じられてしまうのと同じように、現代にはあまりにも多く、失敗を見る機会があります。
    ならばここで必要なのは「失敗を恐れながら、どのように進むか。どのように挑戦するか」ということでしょう。
    『清々しさを大切にする』というのは確かにそれができるだけの楽観的な傾向を持ってい人には有効な方法だと思います。
    しかし気分が落ち込んでいるときや、恐怖にしり込みしているとき「清々しくしよう」というのはあまり意味がある解決策ではありません。

    おそらくそれは「個人個人の気分の問題」の領域の外にあるように思われます。恐怖を軽減し、失敗を重いものとして捉えないためには、積極的な社会の援助、社会的な「失敗を許す雰囲気」が必要であるように思います。
    (それはもはや大きい流れの話であって個人個人が考えてどうにかなるものでもありませんが)
    (あえて具体的な案を出すとすると「失敗をしても幸福そうに生きる人の例」を増やすことだと思います。動画なりテレビのドキュメンタリー等で)

    長文失礼しました。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      社会において、社会が目指すあり方の方向としてはそうですが、結局のところ「外界への反応」というものを始めとする外界の状況への依存度が高ければ高いほど、無駄な精神の苦しみを得ることになります。
      社会の状態に委ねるとなると、「操作ができないような感じ」は常に起こりますし、嫌な相手に自分をコントロールする力を与えてしまうことにもなります。

      それが正しいことであれ「固定観念に対する執著」と「外界をコントロールできないこと」がセットになると一種の苦しみが生まれます。

      そこで通常考えられることは、保持する観念を飲み込むか、逆に正当性を主張し外界をコントロールするか、ということで苦しみを解消すること、という感じになります。
      しかしながら、本来の意味での諦念、つまり、より厳密な現在の現実への気づきにより、その苦しみは瞬間的に過去のものとなり今の現実とはなりえません(このあたりは哲学テーマ等々をご参照ください)。

      清々しさに関しては、この内側のこととして「思い」を切るというような感覚となります。無理に清々しく思うということではなく、一種の望んでいた状態を放棄し、対象の空間から脱却することというような感じです。
      それは良好な関係を保とうと気を使っていたものの、呆れて去るというような感覚に似ています。
      また、「できればプライドを保ったまま、うまくやりたい」と思いコソコソじわじわと歩んでいた時に、ふとその鬱屈さに嫌気が差し「惨めに見えようが、それでもかまわない」と思い切り踏み込むときにも似ています。

      世には何をしても揚げ足を取るような、何をしても肯定はされないような空間があるとしましょう。そこは恐怖心を煽り、失敗を許さず、勝ち負け、優劣の判断が大好きな一種の僻み根性で埋め尽くされた空間であるとしましょう。

      その空間への依存から脱すれば、瞬間的に関係のないこととなります。
      今、意識を向けていない対象の空間で何が起こっているかをすべて知っているわけではないように、抜け出した空間でその後何が起こっていようが、この心のこととしては関係のないこととなるという感じになります。

      そして過剰な援助は、時に自立心を奪い、何かしらへの依存心を高め、空間からの脱却を阻害するものとなりえます。
      ある空間の変化を期待し、そこに意識の状態を委ね、依存するこということは、その空間を肯定し、力を与え、この心のコントロール権を与えるということになりかねません。

      今関係する空間の状態がどうあれ、より物理的で実質的な「結果」に着目し、より本質的な現実はどの程度のものか、ということが確認できれば、恐怖という意識の反応があっても、その場を切り抜けることができると思います。

      「息を吸ったら吐きたくなる」というレベルのより本質的な現実を観て、恐怖心から起こる執著、執著から起こる恐怖心を解放すると、自然な選択、自然な行動のみが残ります。そしてそこには憂いがありません。

  2. 返信ありがとうございます。とても楽しく拝読しました。

    私は「清々しさ」という言葉の意味を取り違えていたみたいですね。
    「忘れる事」「気にしない事」「引きずらない事」
    「忘れるようとする事」「気にしないようにすること」「引きずらないようにすること」
    これらのことを「清々しさ」だと思って読んでいましたが、どうやらもっと諦念的、開放的な観念だったんですね。勘違いしていました。

    BOSSUさんの語られた「清々しさ」は私自身よく感じるものでもあります。私はそれを「開き直り」と呼ぶことが多くて、むしろその「開き直り」は、悪感情がなくてはたどり着けない一種の高度な精神状態であると解しております。
    ゆえに私個人の意見としては、「この世の中は苦しさや悲しさに満ちている」ということはそのまま「この世の中は苦しさや悲しさを乗り越えるだけの強さ、美しさ、気高さで満ちている」ということでもあると思っているので、それに関しては全面的に同意します。
    「人間の本質は精神ではなく行動にある」と私は考えております。つまり精神にどれだけ苦悩や邪念があったとしても、行動が美しければ、その苦悩や邪念でさえもその美しさによって肯定されるであろうと考えています。(ユゴーのレ・ミゼラブルはそれをよく表しているように思います)

    おそらくBOSSUさんは(もし間違っていたらごめんなさい)、「この人は社会の雰囲気に多少なりとも影響されている人なのだろう」と思って返信をくだったのだと思います。
    実際のところ私は、私が否応なく社会の声というものに揺さぶられるのを感じます。吐き気を感じ、どうしようもない孤独に喘ぐこともあります。でもそれは全て、私が望んだことです。私は感情というのを愛しているのです。怒りや憎しみでさえ、そこに存在すべきものだとして感じています。それがない世界は、どうにも味気ない。色が一色足りない絵画のような気がするのです。

    ただ、
    『恐怖を軽減し、失敗を重いものとして捉えないためには、積極的な社会の援助、社会的な「失敗を許す雰囲気」が必要であるように思います』
    この部分は少々、軽率な意見であったと自戒しています。というのもそれはもはやゲーム的に「人々がこの社会においてより気楽に挑戦するためには?」という問題に対しての適切な解として、ほとんど個人的な感情を挟まずに書いてしまいまったものですから。これは社会的な見地から見れば不正解ではありませんが(新聞などではこのような言葉がたくさん見受けられますし)私個人の意見としては、嘘であったな、と思っています。

    『そして過剰な援助は、時に自立心を奪い、何かしらへの依存心を高め、空間からの脱却を阻害するものとなりえます』
    というBOSSUさんのご意見を見て、気づかせていただきました。私自身、それには自らの経験を通して思い当たる部分もありましたし、何度かそれを自らに言い聞かせたこともあったので。

    色々他にも文章を書いたのですが、あまりに内容が煩雑としていて、自分でも何が言いたいのか分からなくなったので、ここまでにしておきます。

    本当に返信ありがとうございました。とても勉強になりました。

    1. 再度コメントどうもありがとうございます。
      おっしゃるとおり「開き直り」は悪感情を含み、怒りという排除衝動としてのエネルギーが高まることで起こる事が多いとは思いますが、より抽象的な清々しさは、例えば長年勤め親しんだ職場を退職する時のようなものを含むため、そうした排除のエネルギーを必要としない場合もあります(それは好きなもの、愛着のあるものとの別れ、つまり愛別離苦といったものを回避するものとなります)。

      重力に対して同等の力で押し返す力があるからこそ、いまここにその形であるという物理的な様子と同様に、ある圧力に対して、それと同等の力で押し返すという様は、ひとつの自然的な美しさを帯びています。

      古今東西、社会環境が厳しければ厳しいほど、より高度な芸術や学術分野が生まれたというような様子についても、同様の自然的な力を感じたりします。
      世に不可解で不自然な制限が起こった時、それをすり抜ける頓智が生まれるというような面白さもあります。

      感情は反応でもあり、どのようにありたいかの指針となります。それは押し殺すようなものでもなく、否定するようなことでもありません。
      ただ何かしらの感情の解消を意図した時に、外界の状態への依存があると、様々な不確定要素から文字通り振り回されることになってしまいます。
      しかしながら構造上「外界を排除する」というのもまた外界に影響されている証となってしまいます。
      また、我執による苦しみがあるとしても利他的であればそれで良いというわけではありませんし、感情を否定するというのもまた歪んでいます。
      そうなると八方塞がりになってしまいそうになりますが、それを脱する感じは、周りに同調したり感情を押し殺したりするというなんとなく「360°水平方向な感じ」のベクトルを垂直方向に向けるという感じになるでしょうか。

      コメントどうもありがとうございました。

  3. 再々度失礼します。
    また長文コメントを書いてもいいのだろうか?(誰の言葉か忘れましたが『あまり短い頻度に言葉を交わしすぎると人は互いに嫌気がさしてしまう。会いたいと思っても、我慢して時間を空けるのがいい』というのを覚えています)
    と、疑問を感じながらも、『迷うならYES』という己の声に従って、書かせていただきます。(返報性でしょうか。これだけ喜ばせていただいて、何も反応をしないというのはどこか居心地が悪い感じがします)

    「清々しさ」ということに関して、悪感情だけでなく良性の感情においても同様のことが起こるということは、盲点でした。
    言われてみれば、好きだった作品がきっちり、相応しい形で完結したときの心が震えるあの感じ、名作と呼べるほど素晴らしい映画のスタッフロール。その時を思い出せば、まさに、その好きなものや愛着のあるものが自分の中に取り込まれているという実感があり「これだけ素晴らしいものがあるならば、全てが許せるような気がする」という気持ちになります。
    このような現象に関してあまりはっきりとした理屈というか、構造を理解していなかったので、とても価値ある学びになりました。

    感情というものについても、私自身は「感情と肩を並べて真っすぐに進む」というような言葉を何度か思いつきましたが、あまり論理的にそれを支えるような言葉をはっきり見つけてはいませんでした。
    やはり同じ物事を、別の角度、方向から見たり、試みたりしたとき、同じ結論が出るというのはとても喜ばしい事ですし、気持ちのいい事です。(別の性質、天性を持つ人間同士が、というのはなおさら嬉しいものです)

    あまり人のブログにコメントを付けたことはなくてとても勇気のいることでしたが、それだけの甲斐はあったと思います。
    ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ