夫婦仲の秘訣は何ですか?
というような話題がありますね。
「あれこれをしてくれる」云々、「こういうところがいいと思う」云々、様々な意見がありますね。
逆に仲の悪い人たちや「一方が当て馬のポンゴになっている夫婦」は「別れるに限る」というようなものもありますね。
しかし、どれも本質とは異なります。
答えを言いましょうか。
男側の自信です。
それだけです。
その自信に根拠がなければないほどいいですね。
つまり、最も良いのは「根拠のない自信のようなもの」です。
そこまでいかない場合でも、何かで自信を持っていればまだマシですね。
しかし自信を誰かに支えてもらおうとしているとダメですね。
妻に対して、横暴な人、自慢が多い人、馬鹿にする人、それらは、自信と力量がないだけですね。
そういう事をしないと、「自信のようなもの」が保てないんです。
だから本質的には自信がありません。
女の人は、本当は自信に包まれたいんです。
でもそれが叶わないから、「せめてあれをやれ、これをやれ、稼いでこい」という感じになってしまうんです。
機嫌の悪い女の人の言うことを真に受けてはいけません。
なぜ機嫌が悪いのか?
それは自信に包まれた安心がないからです。
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この人はサディストなのではないか?
と思うような女の人がいますが、
本当は違いますね。
たいていは逆です。
想いが叶わないから、ゴネているんです。
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極端な人は、惚れた相手とナメた相手との態度が180度違います。
「二重人格なのではないか?」と思うほどです。
ただ、「自信に包まれたいのに包まれない」ということにゴネているのではなく、本当にただ横暴な人もいます。
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慈悲につながるような「尽くすような行動」をしてしまうと、女の人は冷めてしまいます。
人間対人間としてはある程度尊厳を守ってくれるかもしれませんが、女として冷めてしまいます。
根本には、女の側に「自信のようなものがみなぎっている男に対して尽くすような行動がしたい」というようなものがあります。
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「自信に包まれたいのに」ということでゴネているというのが基本ですが、先に触れた通り、本当にただ横暴な人もいます。
そこで男の方に自信がある場合を考えてみましょう。
引く手数多なので、去ればいいだけです。
狂人を相手にする必要はどこにもありません。
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世の大半の男性は、マザコンの気があります。
マザコンは女の人に嫌がられるのを知っていますが、本質的にはマザコンという人が大多数を占めています。
ただ、母を大切にするということは本来良いことのはずです。
しかし嫌われます。
意志決定を母に委ねるというようなものはもちろん、根本的には、自信が低下した時に母に支えてもらおうとするような気質が、嫌がられる原因の最たるものです。
その対象は実の母である必要はありません。
夜の店に通って自信を支えてもらおうとしたりすること等々、実の母以外にすがろうとする人もいます。
実際には、「彼女」や「妻」もその対象にしがちです。
外で他の女と遊ぼうというのも、楽しみたいという言うよりも、「自信を支えてもらいたい」という部分が大きいのではないでしょうか。
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「根拠のない自信のようなもの」がみなぎっていると、女の人に支えてもらおうなどという発想は出てきません。
女の人と接するにしても、「とりあえず今は行動としてそれを選択すると楽しいから」という感じになります。
行動選択の動機において高い純度で「楽しみという自分の気持ち」に従っているということになります。
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自信が低下し、妻の態度が冷たくなったりすると、概ね「人としてまともなことをしよう」とするか、いじけるか、絶望するかというような感じになります。
自己犠牲かのように家庭にまつわるいろいろなことをやってみたり、妻の要望に合わせて多額のローンを抱えたりと、返報性を期待するようなことしてしまいますが、そうしたことはズレています。
それがズレているということは、客観的に、世間の一般的な倫理観的には、許せないように見えます。
明らかに家族のために良いことをしているのに、というような感じになります。
それはそれでいいですが、「その犠牲のような行動によって、妻の態度が変わり、自信を回復させてもらおう」というようなものがあるとほとんどうまくいきません。
情けないような慰みを受ける程度です。
「やった分くらいは返してもらって当然だ」
それは当然じゃないか、と普通は思うかもしれません。
しかし普通の話をしても面白くありませんし、そんな普通の話でうまくいくならそうしてください、と思ってしまいます。
根本的には、他人、それどころか「外界」に自信をつけてもらおうとすることが間違いです。
また、「自信があればいいんだ」とか「男らしく」ということを意識して、「横暴な態度を取ればいいのだ」、「畏怖によって従わせよう」、「引くのものアリだ。無視しよう」というのも間違いです。
それは自立した自信、自己完結した「根拠のない自信のようなもの」ではなく、ただの駄々っ子です。
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自信というと、横柄な感じをイメージしてしまいますが、そうしたものよりも、自分への信頼というものの方がここで言う自信の定義に近い感じです。
合理性や言語を消していくと、どんどん信頼が高まっていきます。
別に不安という反応が出てもそれはそれで構いません。
ただの反応ですから。
不安を和らげるために世間一般のデータや論理で裏付けようとすればするほど、「根拠のない自信のようなもの」から遠ざかります。
物語や実話等々でたまに出てくる、「神は私を見放さない。そうしたとすればそれが宿命だ」というような意気込みは、世間一般の合理性から考えると狂気です。狂人と言っても過言ではないでしょう。
しかし宗教に絡んでいなくても何故かしっくり来る感覚があります。
神という言葉を使うと、変な概念が生まれ、神の定義をしてしまうという宗教にハマるルートに行ってしまう他、神や信仰心等々が「根拠」になってしまうので、次のように換言してみましょう。
「本質的な私」は「思考・反応としての自我を見放さない」
という感じでしょうか。
そうすると、抵抗の根源である自我が「思考・反応としての自我を見放さない」という「判断」をもって、自我空間を打ち消し合って無効化されます。
凡人なら狂人のほうがマシ、という理屈です。
しかし、本来は、そんな打ち消し合いも不要です。
本来、「根拠のない自信のようなもの」に言葉は不要です。
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夫婦仲から大きく脱線したかのように思えますが、これらは夫婦仲と大きく関係しています。
ウジウジと「世間が不況だ」という話題を妻にしてしまうのも、ただの愚痴というより、「だから仕方ないよね」というような自己弁護が入っています。
「夫や父としての威厳を保てない…かもしれない」
という自信の低下は絡んでいないでしょうか?
逆にうまくいったことに対しては、これで「夫や父としての威厳をもっと」という感じで、自分が求める程度まで、持ち上げられることを意図していないでしょうか?
結局自信に絡んでいます。
「あーめんどくせ」
が、たいていの妻の本音です。
褒めて慰めてをしてくれるのは、概ね母のみです(自分のことにカツカツ等々、もちろんそうでない人もいます)。
で、褒めたり慰めたりして自信をつけてくれないからと、妻や子供に対してヒステリックに暴力を振るう人もいますね。そんなものは論外です。
自己完結している自信に女の人は惹かれます。
しかし、「自信をくれ」とねだられるのは心の底から嫌なのです。
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自信は「つけるもの」ではありません。
減点方式です。
何かの思考、判断、言語が、減点してきます。
「根拠を示せ」
ということですね。
だから「根拠のない自信のようなもの」でないといけないということになります。
もちろん、体調を崩したり、トラブルがあったり等々で、自信が低下するような「反応」が起こることはあります。
ただその時も、「この不安という反応が何だ?そんなもので揺るぐはずがない」という感覚を持ってください。
それが強くなると、妻との関係において、どのような態度を取られても何とも思わなくなります。
現実を無視していくようになります。
すると、妻をはじめ女の人が勝手に引き寄せられてきます。
おそらく現実が変わっていきます。
ただ、現実を変えようとすると、おそらく変わりません。
それは「現実を変えて自信を取り戻そう」ということになりやすく、本質的な「根拠のない自信のようなもの」を自己完結しているわけではないからです。
本来は少しズレますが、「根拠のない自信のようなもの」を夫婦仲やモテ目線で表現すると次のようなものになります。
僕は嫌でも女に惚れられ、尽くされてしまう。
この顔だから、この体だから、この職業だから、この資産だからじゃないよ。
僕だから。
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