問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証

問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証ということで、今回は心の観察等々意識的なあり方ではなく、実質的で理性的な「問題への対峙の仕方」について触れていきます。

僕の身の回りの人、特に女性の多くに「相手の言っていることはなんとなく理解できるが、変だなぁという違和感だけがあって、結局言い返せない」という悩みを持つ人がいます。

そうした形で我慢を強いられることは苦しいことです。「不服を持ちつつも受け入れなければならないのか」というような感じです。

僕も十代の頃くらいは、深いところでそうした嫌な感じを経験しました。感覚的なものにしか過ぎませんが、本格的に学んだりはしなくとも、中学生の時からディベーダーのような発想をしていました。しかしながら、やはり議論がより実社会的になればなるほど、相手に勝てないような不安感が増していきました。

そしてそれがさらに哲学的な迷いとなり、どうにか脱するしかないと思った時のことは「蓋然性とあいまいさ」で触れていた通りです。

でも社会における日常生活レベルであれば、少しの頭の整理の仕方を押さえておけば、問題の発生を抑えたり、問題を早期に解決することができる上に気持ちに余裕が出るのではないかと思います。

近年、話が通じない人が前に出てくることが多くなったような気がします。また、ソーシャルネットワーク等々で、一行で意見を言うことで勝ったような感覚を持つ人も多いような気がしますが、それらは所詮譫言です。

まあ基本的には広い意味の「モテたいでしょ?」程度で人を説得できると思っているという感じに見えます。異性間のモテのみならず「大人だと思われたいでしょ?」「支持されたいでしょ?」という程度といったところです。

それら戯言、譫言は、それを肯定すると自分が不利になるという感情くらいが発端で、かつ「本質的な『意見=クレーム』をどう支えるのか?」という部分が曖昧になっており、論理的整合性もない、データもワラントもなく蓋然性も低いという感じになったりしています。

まあ今回触れるのは、あくまで社会的な問題、社会的関係性においてジャッジが必要なシーンにおいてどのように考えて意見を支えておけばよいかという程度で、形而上学的領域では概ね通用しません。

領域によっては、データは相関関係を示すのみで因果関係を示しうるものではないという感じで「データ自体が根拠となりえない」からというのがその理由です。

しかし社会における問題は基本的なロジックを押さえておくだけですぐに解決していけるので簡単に触れておこうと思ったしだいです。混乱が生じると気持ちも揺れ動き、不安感が増したり怒りが増したりしてしまいます。

それでは、問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証について触れていきましょう。

基本はトゥールミンモデル・三角ロジックで十分

社会的な問題に対処する時、基本的にはトゥールミンモデルと三角ロジックくらいで十分に主張をまとめることができます。

着地点、目的となる効果を定めた上で、ちょっと考えればすぐに対処できるという感じです。

今回は簡単な理解を目的とし、そんなに深く触れるつもりもないので、ディベートの基本であるトゥールミンモデル・三角ロジックの詳細については他の文献等に任せますが、基本的には主張(クレーム)と、それを支える根拠(データ)、論拠(ワラント)によって論証していきましょうという感じです。そしてワラントを支えるための論拠の裏付けや反証、その強度などを考えておきましょうという感じです。

相手が譫言であり、自分は論証があるという状態になると、気持ちに余裕が出ます。気持ちの余裕のためにそうした感じのことを頭に置いてもらえればなぁという感じです。

そういうわけなので、基本中の基本の三角ロジックについて触れてみましょう。

データ・ワラント・クレームの三角ロジック

言葉はややこしいですが、基本中の基本は、「データ・ワラント・クレーム」です。データは、そのまま一般概念としてのデータです。ワラントは、データを元にその後の主張につながる論理という感じで論拠を意味します。で、クレームはそのまま主張・意見という感じです。

まああんまり用語にこだわっても仕方がないので、先日の実例「足音や振動など隣の家の騒音への対処」で示してみましょう。

「足音がうるさいので、部屋で走り回るのはやめなさい」というのが単純なクレームです。

で、その時により確からしい論証をしようと思えば、騒音がうるさいということを支える必要があります。

その時、データとなるのが騒音計で計測したデシベル値です。

で「うるさいからやめろ」という論拠(ワラント)は、「裁判例において、足音による騒音が50デシベルを超過した場合、不法行為として認められている(ただし、日常的であること、注意されても対処しなかった、ということも求められている)」です。

「類似ケースでは裁判においてこのような判断がなされています」というのが論拠で、実際の裁判例自体は裏付けなどになるでしょう。しかしここではとりあえず省略します。

まあ前提としてこれは法律というフィールドでクレームを作るという形になっています。

法律というフィールドのクレームが社会的にどうなるのかといえば、不法行為による損害賠償請求の対象となり、公権力によって金銭の支払い命令が下されるという効果です。

その他、クレームは同じでも、別のデータやワラントで論証していくこともできます。

で、相手のクレームである「子供がしていることなのだから容認しろ」ということにはデータやワラントがあるのかというと論証されていないか、力の弱い論証になっていたりします。なので「戯言」や「譫言」ということを示すこともできます。

もちろん相手としてもクレームを作ることはできます。ただ、そのワラントとなっていることが、その人の感情であったり主観的で曖昧性を持つものであったり、単に身の回りの人の同調意見を根拠にしていたりするだけなので、第三者がジャッジをするときには弱いという事になってしまうという感じです。

効果に着目してクレームやワラントやデータを選ぶ

で、「効果」に着目して考えた場合、相手のクレームから導き出されるものは「そんな事を言うなんて人間としてどうかと思う」程度であり、相手からの評価、好意程度になります。

「いい人だと思ってたんですけどね」程度です。まあそういうフィールドで論証していって交渉していくというのは構いませんが、「その人からの評価を欲しない」となれば、それは有効的ではありません。

「あなたと違ってAさんはそんなに細かいことを言わないし、おおらかで人格者だ。自分の周りの人たちもそう言っている。自分の周りの人たちが評価しているという証拠となるデータはこのメッセージのやり取りだ」

というのもいいですが、所詮その程度のフィールドのクレームは、着地点が「評価をくれる」というくらいなので、評価がいらないと言えばそれで終わりという感じになります。

しかし、法律というフィールドでいくと、どちらのクレームを採用するかを裁判所がジャッジして生まれる効果は、損害賠償命令というリアルな効果になります。

なので、社会問題に対しては、効果に着目してクレームやワラントやデータを選ぶという形で交渉すると良いという感じになります。

自尊心という虚像、群れを欲する気持ちを保持していると他人からの評価の方を気にしてしまうかもしれませんが、「みんなからの評価は嬉しいよね?」という点で自己都合を押し付けてこられるくらいなら、評価などいらないと思えてくるはずです。

「自分の周りの人たちはみんなそう言っている」ということを証明材料にするのはいいですが、法律というフィールドにおいて、「身の回りの人の同調意見」をもって「裁判官の意見」を覆せるのかということになります。

ということで結構単純です。

相手が恥を気にする人だったら「恥をかきますよ」ということがクレームを支えるものになってしまうことになってしまいますが、「別に構わん」と思っている人にとっては効きません。

「いい人だと思われたいですよね?」という広い意味でのモテフィールドでクレームを作るのは結構ですが、評価を欲しないのであれば、その主張を無駄な主張にすることができます。

世の中には、そうした自尊心や倫理観のフィールドで交渉してくる人が結構いますし、その場のやり場のない感情を単なるクレームにする人たちもたくさんいます。

まあでもそれを観察すると結局データもワラントもなく、単に自分がめんどくさいからとか、自分が責任を引き受けるのは嫌だからという怠慢を支えたいという程度です。なので譫言ということになります。そんなことを気にしている場合ではありません。

全体を包括した視点

クレームを作るときには、可能な限り全体を包括した視点で検討していくほうがより有利になります。

まあよく「それはあなたの都合でしょ?」という反論をしてくる人がいますが、「『それはあなたの都合でしょ?』というクレームもあなたの都合でしょ?」ということになってしまうので、意味のない議論です。

自分と相手とその他の社会という目線で考えていくと、第三者のジャッジで有利になっていきます。法律分野で言えば公共性・公益性などが考慮されるという部分になります。

まあ子供に関する奇声や足音騒音などに関しては、所詮その親や親の友達という集合の領域における自分たちの都合ですが、社会的判断の場合には、その集合の外にいる社会全体の利益というものも加味されていきますし、回避可能性なども論点になっていったりします。一元化して「別にいいでしょ」というわけにはいきません。いいのはその人達だけですから。

なので、別に法律というフィールドでなくても、クレームを作る時は、そうした包括する範囲をできるだけ広げて検討したほうが無難です。

さらにいうと、「既に過ぎたことであり、どうすることもできないので容認することも可能だが、容認することは抑止力を無くすことになる」という視点なども入ってきます。

意識に余裕を生み出すために

まあ本来のディベートとは趣旨がズレたような感じになりましたが、そんな感じで相手のクレームとクレームの先にある効果をよく観察した上で、クレームを支えるデータやワラントに着目していれば、「あーはいはい」という感じで聞き流すこともできますし、自分の主張に自信を持つことができるようなっていきます。

効果面から考えると、リアルな社会では「権限」の問題もあるので、クレームが論証されていればすべてが通じるというわけではありません。その場合は、「どういった力を利用するのか?」というフィールドの見極めも大切です。

友人知人などなど、仲間を集めて「みんなの意見」で対抗しようというのが通じるのは未成年の世界や狭いコミュニティ内程度です。

例えば会社であれば、株主や取締役に力があります。結局法令の範囲内であれば、「みんなで文句を言っても仕方がない」ということになってしまいます。「みんなで意見を出し合った結果、この仕事はやりたくない」といっても通じないという感じです。

みんなの意見とか私の意見などといったところで、効果に着目すれば、大して何もできないというのが現実です。

なので、「あなたの作ったクレームは論証なき譫言なので、何ともならないですよ」というリアルを観察すれば、巷の「他人からの評価」に振り回されることも無くなっていくでしょう。

そして同時に、効果に着目してデータとワラントを用意した上でクレームを作ることになれていけば、「さらに言い返された時が不安」ということも無くなっていきます。まあそれですぐに相手が動くか動かないかは別問題ですが、少なくとも意識に余裕ができるでしょう。

ジャッジがいるにしても、蓋然性の高さの問題などもあるので確実に効果が生じるかはわからない面はあります。しかし、こうした簡単なロジックを念頭に置いてクレームを作ると、多少なりと自信は出てくるでしょう。そしてそうしているうちにデータとワラントの「確からしさ」を高める材料を揃えていくなどの点も見えていくようになると思います。相手の反証を予測し、予め反証への反証を用意しておくこともできるようになります。

そうした精度の向上に伴って、問題と対峙したときの憂いは低減していくでしょう。

まあ本来ディベートの技術、ロジック自体は「より良い解を最短で」という目的を持っていたりしますが、こうしたロジックを多少なりと念頭に置いておくと社会的問題で混乱することは減っていくと思います。

自分のことしか見えていない人からの「理不尽で意味不明なクレーム」があった時に、うろたえることも無くなっていくでしょう。

といっても、結局は「どうありたいか」を明確にしておくことが一番大切です。「勤めている会社の嫌な現状」等々の問題をロジックで詰めていくよりも、そうした問題を飛び越え、全く別のフィールドに移動してしまえば一気に解決するという視点を持つことも良いと思います。

まあ単純なところで言えば、「営業時間とラストオーダーの表記」で触れていたような感じですね。

館内のいたるところに営業時間終了は22:00、ラストオーダーは21:30と表記されている中、21:15くらいに向かったところ「ラストオーダーは9時(21:00)です」と言われた場合に、「そうですか、さようなら」と去るという感じです。

「相手の言っていることはなんとなく理解できる。しかしながらなんだか変だなぁという違和感がある。きっと相手の主張の中で自分としては受け入れたくない部分はどこかにあるものの、曖昧に反論したらそれに対して反論が来るかもしれない。そうと思うと結局言い返せない」

そんな時は「いいと思う」とか「だめだと思う」というような曖昧な意見を集めるのではなく、ロジックを分解して捉えてみるほうが理にかなっています。

なんだか納得がいっていないという場合でも、どの部分のどこを確認できれば納得できるのかというような点も見えるようになっていくでしょう。

といってもあくまで社会的な問題レベルのお話で、データやワラントがほとんど意味をなさない形而上学的領域や感情の世界には通用しないのであしからず。

いかにデータやワラントを持ってきたとしても「好き」を支えることはできないというのがわかりやすい例になるでしょう。


「弁論で勝つこと」は、時に感情の世界では通用しないという側面はありますが、論理や弁論術としての卑怯さ、詭弁などへの対峙の仕方や、反証があった際に後に自分が不利になるということを避けるには、ある程度論理学やレトリック(修辞学)を経験してみると良いのかなぁと思います。

生兵法とレトリック

Category:miscellaneous notes 雑記

「問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証」への2件のフィードバック

  1. 時間はその概念と相反して、人間の五感で言うところの空間的広がりみたいものを持っていたりするのでしょうか

    それはそれとして、bossuさんは今、何に向かって進んでいらっしゃるのでしょうか

    1. 哲学的に考えると、時間は記憶から起こる相対概念のようなもので、現実としては現在のみとなります。また仮定として客観的で独立した理であるとしても、この心が受け取るということに関しては現在の五蘊のみとなるので、証明のしようがないという感じになります。
      なので実在に関しては、有無を統合した空的な扱いくらいしかできません。ないことはないし、あるということもないという感じです。なので、情報としては空間をもたせることはできますが、それが実在しているわけではないというような感じです。「時間に関する概念が情報状態として今現在に形成され、それを今心が受け取る」という程度です。

      「何に向かっているか」については、常に移り変わるのでその時々によって変化します。変化によって喉が渇けば水分を欲して水分を摂るということに向かうという程度です。環境は常に変化をするで、その時に応じて意図も変化します。変化への抗いは苦しみを生み出すため、固定化された信念や特定の概念への執著はないという感じです。

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