哲学と未成年の感覚

哲学の領域は、哲学を勉強することで完結するものではありません。柔軟な感覚で自ら紐解き、自ら超える領域であるのが哲学領域です。誰かが考えたことをを理解するということも、自らの検討材料として良いきっかけとなりますが、知り、理解することが哲学ではないのです。

そう考えると、最も重要なのは「未成年の感覚」です。哲学に限らず全ての科学は「何でなんだろう?」と問うこと無しには先に進みません。

ということは、半ば強制的に教え込まれることよりも、「あのとき彼はなぜそんなことを言ったのだろう?」と疑問に思うことの方がよほど科学的な姿勢になります。

学問領域であっても「ただなんとなく」とか、「まだそれが得意な方だったから」といったような動機で学ぶよりも、強烈な「問い」がある方が圧倒的に伸びます。

そこで失ってはならないのが、未成年の感覚です。幼児から世間で言う「成人」するまでの間に持つ純粋な問いの精神が、哲学的領域を紐解くのに最も重要になります。

例えば次のような会話がなされたりします。

「墓や葬式など、霊感商法と同じなのではないですか?」

「それは文化的な風習や儀式になるので霊感商法にはなりません」

この場合、質問者の問いの姿勢のほうが圧倒的に正しいはずですが、世間では難癖つけてそうした質問を言いくるめる傾向にあります。

僕は、幼児期から「相手の話をよく聞きなさい、そして理解できなければ、わかるまで質問しなさい」という教育をされてきました。

そして最後の最後までいくら質問しても理屈は理解できても納得はできなかったのです。

「勉強が役立つとは思えません」

「それでも今のあなたにはそれが仕事です」

というようなやりとりも結構ありそうですが、「仕事と言うなら給料をくれ」というのが本音のはずです。そして同時に、いまやらされている勉強が何の役に立つのか全くわからないと言う感覚もひとつの正解ですらあります。

そこでその分野を完全に習得したところで、お金が稼げるとも思えません。直接的に何の役に立つのか全くわからないのです。

そうした時に重要なのは、きちんと説明してくれるような大人の人と出会う確率は、宝くじの1等とまではいきませんが3等賞を当てるくらい低い確率だということを知っておくことです。

「何でもかんでも謎は人から教えてもらえるということではないのだ」

と言う感じです。

ただ、あえていうと例えば国語であれば「誰かの思いを読み解く能力と、誰かに思いを伝える能力を磨く」ということにつながるので、人との会話や文章での伝達の際に、食い違いが起こりにくくなるというような機能があります。

それはお金を稼ぐという点で考えても、間接的に人とのトラブルを避けたりすることにもつながりますし「人の考えを理解する」、「人に自分の考えを齟齬なく伝える」という意味で対人コミュニケーション能力にもつながってきます。

ということで、「なぜなのか?」と思ったからには、ヒントとして人に意見を聞くのもいいですが、自分でその答えを探っていかねばなりません。

そうしていくと、何かと理不尽な規則があったりした時、「これは、ただの先人たちの都合」というものも見抜けるようになってきます。

体育会系などその代表例で、「理不尽に耐える兵隊」を作り上げるための「教育という名の洗脳」だということはすぐに理解できるようになります。

ただ、そうした考えを持っている相手と論争して勝っても何の実りもありません。

いくら疑問を持っている方の感覚が正しくても、「社会」においてはその正しさだけで、人を動かすことはできなかったりするからです。

しかし、疑問を持たなければ、単なる「洗脳された人」になってしまいます。

「言っても無駄だ」とか「議論に勝っても意味がない」とか、「考えるのがめんどくさい」ということに慣れていくうちに、理不尽なことも理不尽だと思わなくなってきたりします。

ただ、人に聞いたりしても答えが見つからないからと言って、世間の意見に同調する必要もありません。

未成年の時に感じた疑問の感覚、純粋な問いの姿勢こそが哲学であり、自分で答えを見つけるべきものとして、いつまでも問い続ける姿勢こそが「知への愛」という意味での哲学です。

知識として知っていて人に説明できるとか学位を取ったというのは、あくまで他人との関係性の中での他人からの評価にしか貢献しません。

しかし、全ての疑問とその答えは、誰のためでもない自分のためにあるという感じになります。

「どうして先生のほうが偉いのか?」

未成年なら万人が疑問に思うような、こうした問いについて、大学時代に学部長と二人きりで話をした時のことをご紹介しましょう。

「さて問題です。どうして私は偉いということになっているでしょう?」

「その奥の動機がどのようなものであれ、僕が学位を欲しているとします。そしてその学位を取得するための要件として単位の認定があります。そしてあなたは、そうした単位を認定する権限を持っている。だからこのパワーバランスは、僕の目的と先生の権限の上に成り立っているという感じでしょうか?」

「そう。だから君が単位を欲さないとすれば私の権限、すなわち単位認定権のようなものは意味をなさなくなる。そして、同時に君と私との関係において『私が偉い』というような構造が消えるというわけだ」

「仮言命法的ということですね」

「そこまで難しく考えんでもいいよ」

「僕がそれを欲さないとすると、関係性は変わるということになるんですね」

「私の偉さのようなものというものは、君の意志に依存してるということだな」

「ただ別件で、敬意というものもどこかしら影響しているということにもなりますね。僕の意志によって先生の偉さが決まるのであれば、それは社会的な権力構造の上でだけとも限らないはずです」

「まあ、それはそうだな。もしそうであるなら、権限によらないというのは何ともありがたいがね」

「そうなると、人との交渉やビジネスにおいても、権力構造以外の要因があるということですね」

「それはもちろんだろう。専門外だがね」

「しかし、僕の目的と先生の権限または僕が持つ先生への感情などを含めて、僕の意志で先生の偉さが成り立っているとすれば、すべてが自分の意志で決まるということになりますね」

「暴力を伴うような社会的強制力というものも出てくるかもしれないが、基本的には社会においてもその構造は成り立つ。変えられないのは自然法則くらいだろう。もっとも自然法則と並べて考えるのはナンセンスだがね」

時折、こんな人達と出会うことがあります。

それはそれで一つのヒントでしかありません。

しかし、なるほどと思えるような答えを提示する人たちも中にはいます。

だからいつでも未成年の感覚を持ち、純粋な問いは純粋な問いのまま、理不尽な何かに染められることなく、納得できるような答えが得れるまで手放すことのないようにしなくてはなりません。

そして言語や哲学の限界を超えるというのが理想的です。

論理では辿り得ないその迷路

Category:philosophy 哲学

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