動機の奥底が見えればそれを憐れに思う

意識的に行ったことでも無意識的に行ったことでも、その奥底には動機や意図があり、その動機の奥底が見えればそれを憐れに思うようなことがよくあります。

まあ一番わかりやすのは白々しく目を見開いたりしながら「すごいすごいすごーい」を連発していた人でしょうか。女性を囲むため、一種のマインドコントロールテクニックかのような感じで「すごい」を連呼していました。

もちろんその奥には助平心があり「こうすれば惚れてくれるのだ」的なものがあります。安物の心理学で得た浅知恵なのか、経験則的なものなのかはわかりませんが、彼なりの成功法則なのでしょう。そして単なる助平心と同時に、モテることによって自らの自尊心を高めようとしているという意図もあります。

ただ、同じような行動をとっていても、そうした助平心や自尊心の補償という感じがしない人もいます。そうした人はある種自己重要感的なものを「人から奪おう」というような渇望感がなく、自然とそうした行動を取っているのでしょう。

外に依存することがないと、外から仕入れようと思わなくなります。

誰に何を言われようと「そんな事が起こっているように見える」という現実しか捉えることがなくなります。

本来、自分への評価も楽しさや幸福といったような認定も全て内側でだけ決まるのです。

そんな感じで過ごしていると、

「おめでたいやつだなぁ」

などと揶揄されることがあるかもしれませんが、おめでたいのだからそれでいいわけです。

外からの評価

さて、外からの評価といえばそれに依存する代表例が「頑張ってきた人たち」です。勉強ばかりしてきた人や大会等々で何かのランク付けをされてきた体育会系などはそうしたものの罠に大きくハマりやすいのではないでしょうか。

「褒められて喜ぶ」

ということは、外からの評価で喜んでいることになります。

喜んではいけないというわけではありませんが、そうしたことに慣れてしまうと、誰かに評価されないと自分を評価できないような人になってしまいます。

もちろん本能的には人が喜んだ顔を見るだけで安心感を得られるという構造になっています。相手の喜んだ顔を見ることによって、「敵ではない」とか「攻撃はしてこないだろう」とか、「仲間だからいざという時助けてくれるだろう」という確認的なことができるからです。

ただ、それに慣れてしまうと「人を喜ばせなければならない」とか「人の期待を裏切っていけない」というような恐怖心や強迫観念が出来上がってしまいます。

そして結果的に、外からの評価に依存することになるのです。

文体に出る渇望感

以前アドラー心理学の解説書について触れたことがありましたが、解説者によっては「自分の嫌いな人を叩くためにアドラーという権威を使っている」というような構造にしか見えない時があります。

まあアドラー心理学に限らずですが、概ね次のような構造をもって語られているという感じです。

「有名でみんなが認めているような権威性がある人が言っているのだから、彼の意見が正しい。そして彼の意見と同じことを思っている自分は正しい。自分が嫌いなあの人は、彼の意見と違ったことを言ったり行ったりしている。だからその人は間違っている。そして私は正しい。その根拠は…」

というような感じです。

僕もたまに引用したりはしますが「より理解を深めたい人はどうぞ」という意図しか持っていませんのであしからず。

世の中では、何か有名な学者とか、宗教の教祖が言っているから正しいなどと本気で信じている人もたくさんいるようですが、そんなことは何の根拠にもなりません。

そんな中、

「有名なあの人の名前を出したら言い返せないだろう?」

というようなことを本気で思っている人たちもいます。しかし、そんなことは僕には一切通用しませんし、僕のようなタイプの人にも通用しません。

で、そうした意図は文体に出たりします。

学者として評価されたいというようなものであったり、「この印籠が目に入らぬか」的に自分で考えずに虎の威を借るという感じだったり、挙げ句、嫌いなタイプの人を叩くために権威という正当性を持ち出してきたりしているという感じです。

その奥には、渇望感があります。そして恐怖心があります。

端的には本人に余裕がないという感じになるでしょう。

ということで、「動機の奥底が見えればそれを憐れに思う」と言う感じです。

歪んだ視点でしか見えない人たち

そういえば今年でHIDE氏が亡くなって20年になりますが、彼が難病患者の方と接するようになった時、週刊誌などでは「偽善」や「売名行為」などと書いたりしていました。

いわば「そうした見出しのほうが売れる」ということなのでしょう。

で、そうしたことを書いた人たちは、のうのうと給料をもらって、下手をすれば今でもそうした仕事をしていたりもするのでしょう。

偽善や売名行為などと書きなぐった雑誌の売上に一喜一憂などしているのでしょう。

HIDE氏は顔も名前も出しているのに、そうしたことを言う人達は顔も名前も出しません。

しかし彼らがそんなことをいくら言ったとしても、HIDE氏は行動を変えたりはしていませんでした。

彼からは天井知らずの優しさ、そして強さが滲み出ています。

それは楽曲を聞けば自ずと分かると思うはずですが、そうした人たちは一体どのような感性を持っているのでしょうか。

ということを考えるとやはりキング牧師に対しても同じようなシブさを感じます。

「私には夢がある。それは、いつの日か私の4人の幼い子どもたちが『肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住む』という夢である」

なんて洒落てるじゃねぇか、という感じです。

Category:miscellaneous notes 雑記

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