共感性なき仮説検証への過剰な欲求

共感性なき仮説検証への過剰な欲求ということで、頭の焼けた理系の「なんとしてでもデータを集めたい」というゲーム中毒・ゲーム依存にも似た過剰な欲の有様についてでも触れていこうと思います。

近年、理系に限らず「共感性がないなぁ」と思うようなあり方はよく見受けられます。

例えば「お金のために働いたことは一度もない」というようなことを自慢気に言う人がいます。この場合、お金のために働かなくても良いような環境に育ったことをパスしており「それを読んだ環境の異なる人はどう思うか?」というところの共感性が欠落しているという感じがします。お金のために働くという感じではないほうが良いというのはわかりますが、そこに環境の差を想定できない視野の狭さや一種の傲りを感じてしまいます。

サービスにおいても一方的に古いバージョンを使えなくしたり、アップデートを促すものの裏で動作を遅くしたり、広告を挿入するだけだったりということもよくあります。

かつてであれば「それでは消費者からのクレームが絶えず、問題が起こる」というような推測からある程度配慮がなされていたような気もしますが、近年は外資に限らず国内企業でも一方的な変更を行うことがしばしばです。

そうしたいかにも収益に関係しそうなことももちろんですが、そうでなくとも「自分が立てた仮説の検証を何としてでも」とか「兎にも角にもデータを集めなければ」というような感じが異常な過剰さをもっていたりしています。

ゲーム依存者のような「頭の焼け」

そうした様を見ると、ゲーム依存者のように「頭が焼けている」というような感じがしてしまいます。レベル上げに必死とかアイテム集めに苦行をするような感じに見えてしまうのです。

こうした傾向は、大きな組織の内側にいて、人と接しない理系に多いと思っています。つまり、生活基盤はある種誰かに依存していて、かつ、リアルな感じで人と接することがなく情報空間に没頭している感じの人が陥りやすいという感じです。販売や営業とは対極にあるような感じですね。

この共感性なき仮説検証への過剰な欲求は、端的には人の気持ちを考えるということすら無く、自分が立てた仮説の検証への欲が異常で、データを集めるためにはどんなことでもするというような感じです。それが文系になると非情なマネーゲーム等々になるのでしょう。

ただ、この手の共感性なき仮説検証への過剰な欲、異常な欲求と狂気は、昔から絶えません。直接的に必要に迫られているわけでもないのに「知りたい」ということで非情な感じで何でもしてしまうというような事例は枚挙に暇がありません。

例えば、九州大学生体解剖事件などがその代表例となるでしょう。その抑制なき仮説検証欲のようなものの裏に「日本的宗教観には神への畏敬の念がないから」というような説明をする人がいたりもしますが、聖戦の名の下非人道的なことをいくらでもしてきたという背景もあるので、個人的には抑制なき狂気の根本として「宗教観とかそうした問題ではない」と思っています。

実験犬ラッキー ボクたち友だちなのに、なぜ?

そうした理系の「共感性なき仮説検証欲」というものに関して、比較的最近思い返したりしたきっかけは「実験犬ラッキー」です。

以前、某医療機関にて「実験犬ラッキー ボクたち友だちなのに、なぜ?(桑原 崇寿氏著/1998年)」という本と出会いました。会計等々が終わってからも居残り、最後まで読んでしまいました。

内容については書籍に任せ割愛しますが、そこで描かれている大学の研究者の言い草が、いかにも「共感性なき仮説検証への過剰な欲求」という感じがしてしまいました。少し極端ですが、大学法人の内側という「社会に出ていない感じ」と理系が組み合わさると共感性がないという感じがしてしまいました。

数学的情報の空間と共感性

これは理系に限ったことではありませんが、数学的情報の空間を扱うと共感性なき仮説検証への過剰な欲求が生じやすいと思っています(なお、数学といっても数論に限定されるわけではないのであしからず)。

「一人の死は悲劇であるが、集団の死は統計上の数字にしか過ぎない」

とか

「私達が覚えているのは結局、『たくさんの人が殺された』ということだけだ」

というような言葉がそうした感じを如実に示しているような気がします。ナチズムやスターリニズムに代表される感じです。

そしてそれは、政治カルトやカルト宗教、ブラック企業の上層部がいかにも取りそうな態度です。しかしそうした人達のみならず、数値的で数学的な情報を取り扱う場合は、トップでなくとも同じような思考に走りやすいと思っています。

こうした思考が進むと究極的には、かのヒトラーに「彼は病気である」とまで言われたとされるスターリンのようになるでしょう。

盲目を呼び起こす中途半端な抽象性

抽象性が高まると当然ながら具体的な情報は減っていきます。そうすると物理的に示し得ないものまで扱えるようになりますが、最終的に何がしたいのかとか、その先にあるどうあれば良いのかというところまでは抽象性が行き着いていないからこそ狂気のようなことが起こると思っています。

データを集めて結局どうなって欲しいのかというところを突き詰めて突き詰めていくという作業がパスされて中途半端に止まっているからこそ、共感性なき仮説検証への過剰な欲求に心を奪われてしまうという感じになります。

根本の根本へと数段階進めて行くと、あらゆることの「総合的に合理的なのか?」という点が見えてきます。

何かしらの能力を高めて社会的に強者の側になりたいというようなものですら、根本には「そうでないと苦しさを得るかもしれない」という恐怖心があり、その先には条件なき「安心」を求めているというような構造があったりします。

また、さらにもっと俗っぽい事柄から始めるのであれば、位置情報を含めた何かしらの写真のアップロードですら、どこかしら「自分を発見して欲しい」というものがあり、「誰かが構ってくれないかなぁ」というものがあります。そしてその奥にある本当に欲しているものは誰かとの親和であり、親和の奥には恐怖心の和らぎというものがあります。

そうであることがわかれば、写真のアップロードという具体的な方法論以外の具体的な行動も頭に浮かびますし、より根本をたどれば何かしらの満足的安心があればよいということになるので親和への欲求すら解放することができます。

というような構造をパスして具体的な何かの「最適化」ばかり追い求める様は愚にしか映りませんし、結局何かしらの幸福のためにと始めたことが、仮説検証への過剰な欲求により共感性を失い、元の意図からは逆行するというのは愚に愚を重ねているような気がしてしまいます。そこには政治カルト的な狂気を感じます。

そうした執著の様子、「頭の焼けたような感じ」には、ゲーム依存者のような雰囲気を感じてしまいます。

そうした一種の依存者の空間の内側に引き摺り込まれませんよう。

Category:miscellaneous notes 雑記

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