八割方はすぐに叶う時代の一眼レフカメラ

技術が進むにつれて、ある程度の地点までは誰でも簡単にたどりつけるようになっていきます。その裏では素人目には理解不能なレベルでのすさまじい高度な技術が組み込まれていたりします。

素人が簡単に操作できるとすれば、その簡単さに応じてその裏にある技術のレベルは高いものになっています。

そのような感じで、以前まではプロの領域だったものであっても八割方はすぐに叶う時代になってきたりしました。

それはプロの価値が下がるということではなく、ラスト二割の価値がより高まったということでもあります。

八割方までは、技術がサポートしてくれますが、ラスト二割はそうはいかない、というのがプロの世界であり、八割までは楽に行けたとしても結局極みにたどり着くには簡単にしてくれる技術が登場する前と同じだけの能力を必要とするか、もしくは、競合も同レベルで簡単にこなしてくるので差がつきにくく、より高い地点での磨きが必要になったりするという構造になっています。

技術が普及する前であれば、先に手を出した人に先行者利益がありますが、普及後であればそのアドバンテージはほとんどなくなります。そうなると、何かで頭一つ飛び出るように磨きをかけなくてはならなくなります。

例えば、動画を制作するにあたり、同じ「1時間の何か」というところは一緒かもしれませんが、素人が作ったものと、海外の有料チャンネルの番組を比較すれば差は歴然です。

動画を制作して発信するという事に関してのハードルは低くなりましたが、より高いクオリティを目指そうと思うと、その裏には凄まじい洗練が必要になります。

単純に考えた場合、ここでいう「クオリティの部分」が全体で考えたところのラスト二割の部分です。そこの部分の質を高めようと思うと凄まじい試行錯誤が必要になるはずです。

先日、そんなことを思っていると、一眼レフカメラに酔う人たちのことが思い浮かんできました。

一眼レフカメラに酔う人たち

デジタル一眼レフカメラが安価になってきてから写真が趣味だという人が増えてきたような感じがします。

カメラと一緒に写っている写真をソーシャルネットワーク等々でプロフィール写真にしている人もちらほらいたりします。

それはそれでいいのですが、時に自分が撮った写真の設定値をわざわざ公開してくれていたりします。

「iso 200 F 7.0」

といった感じです。

で、いつも思うのですが、それは単にオートモードでたまたま撮れた時の設定値であり、自分が意図したものではなく、デジカメが判断した値ではないのでしょうか?

F値とは、光をどれだけ取り込むかというような絞り値のことですが、例えば「F 7.0」と「F 5.6」といった感じで比較する場合なら設定値を公開することを理解はできるものの、単発の場合はどうも目的が異なっているような感じがします。

夜に車のテールランプが「ぐああああ」っとなっているような写真であれば、こんな風に撮りましたという設定値を知りたかったりしますが、単に自分の子供の七五三の写真で普通の写真であるのにわざわざ設定値を公開するというのはよくわかりません。

友人がそういうことをやりだしたので、芸術大学で教鞭を取る共通の友人と一緒に

「寒いからやめろよ」

と言っておきました。

なぜなら、オートモードで撮っただけだったからです。

その場合、すごいのはカメラを作った人たちであって、撮った人は技術のお世話になっているだけになります。

しかし、そうした技術のお世話になっているだけのことをまるで自分の実力かのように演出するのは、爆笑の対象になるぞということを伝えておいたという感じです。

カメラがデジタル化される前とされた後

なんだかんだで写真撮影を仕事にしている友人や知人が結構いますが、彼らは概ね世代的にデジタル化される前からカメラを触っている人たちです。

昔からやっているからすごいというわけではありませんが、あくまで設定値に限って考えた場合、フィルム撮影時代であれば、isoに関してはフィルム交換が必要だったりして、現代のデジタル一眼のオートのように感度を自動調整などしてくれない時代でした。

そうした時代にあっては、そうした設定値は貴重な参考データとなりえますし、うまい具合に調整できる事自体が一つの強みでもありました。

まあそれがデジタル化して素人でも簡単にある程度のものが取れるようになった事自体は技術の進歩なので良いことであると思いますが、その時「設定値の公開」とフルオート可能な現代の設定値の公開では、情報価値が大きく異なってくることは明白です。

僕は特にカメラにこだわりなどもなく単なる素人ですが、フィルム時代に友人たちが本格的な撮影をしている時にいろいろと勉強させていただいたりしました。

光の量を測ったりとか何とかで「いろいろと大変なんだなぁ」と思ったりしました。

まあその点を技術が楽をさせてくれるという部分はいいですが、誰しもが技術を使えるようになった中であれば、八割方は誰でもできてしまうということになります。

しかしそうして平均水準が上がった中においても、ラスト二割の部分がパスされたわけではなく、さらに競合もある程度は簡単に近寄ってくるのでそこで抜きん出るのは極めて厳しくなります。

それがプロの世界になるはずですが、技術が八割方を勝手にやってくれたことを自分の実力かのように装うというのはプロに対する軽視があるような気がしてなりません。

オート撮影の割に「iso 200 F 7.0 露出時間0.4秒」などという表記をすることは、素人が素人を騙してモテようとしているとしか思えません。

ということを、友人に言っておきました。

「続けるんやったらこれからお前のこと『F 7.0の人』って呼ぶで」

といった感じで伝えておきました。

Category:miscellaneous notes 雑記

「八割方はすぐに叶う時代の一眼レフカメラ」への6件のフィードバック

  1. いつも勉強をさせて頂いております。
    コメントへのレス、駄文にも関わらずありがとうございます。

    私は古い人間なので、とアナログがとても好きです。
    毎日の生活の中で、デジタルの恩恵を頂いていることは9割以上ではないかと思います。
    その中で一瞬だけアナログを信頼する瞬間があります。
    自分の判断だったり、空気の流れだったり、人の感情だったり。
    アナログでは解決出来ないこともありますが、その逆も正かと。

    写真には明るくありませんが、昔フィルムカメラを持って良く出かけました。
    素人ですが、写真を沢山撮るというよりも、良い一枚の写真を撮りたくて準備をしている時が楽しかったです。
    感度、ホワイトバランス、シャッタースピード、湿度…。
    今のデジタルカメラはあまり縁がないのですが、そう言うことを瞬時にやってくれるんですね。
    そういえば、iPhoneのカメラで撮った写真があまりにきれいで、自分で撮影したにも関わらず、「これって合成?」とボケたことがありましたw
    本物と偽物の境目が分からない年齢なんだと思います。

    また勉強をさせて頂きます。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      アナログでは解決出来ないこともありながら、その逆もまた然り、というのはまさにその通りだと思います。

      利用できるものはいくらでも利用すればいいですが、いずれかに依存し執着するとおかしなことになると思っています。

      デジタルに頼り切ったとしても、結局最終的には生身の人間相手となりますので、いくらビッグデータが云々といったところで個々の人には完全に適用することはできない、というのもそうですし、逆にアナログへの執着によって、デジタルであれば可能な様々な可能性を初めから潰してしまうというのも然りという感じです。

      「良い一枚の写真を撮りたくて準備をしている時が楽しかった」とのお言葉どおり、楽しさという感覚的なものは、最適化によって実現できるものではないと考えています。

      迷った時のマップ検索などを例に取ると、現在位置の確認と目的地までのルートを探すと言った感じで、最短時間かつ最小の労力で目的を遂行するということについては、デジタル的なシステムやネットワーク技術の出番ですが、迷子になった時の「目的地を探す楽しさ」や仲間内の連帯感の構築などはなくなります。

      それで浮いた時間や労力を新しい経験や創造に費やすことができれば良いのですが「暇の感覚」や「孤独感」が加速するだけになっているような気がします。

      簡単にできる分、面倒なことは避けるようになるため、わざわざ迷う方を選択するということは稀です。

      そして、暇の感覚と孤独感が蓄積して閾値に達するとソーシャルネットワーク等々で「設定値の公開」などをして、誰かが反応するのを待つようなことが起こるという感じではないでしょうか。

      僕はそのように考えていますが、どの時代においても技術の進歩自体は止めることができないので、問題があるとすれば意識の方にあると思っています。

  2. 趣旨とは関係ありませんが、「芸術大学で教鞭を取る共通の友人」という言い方をしたのは、社会的権威を以て自身の正しさを補強するためでしょうか。

    1. あなたの認知の領域なのでそう解釈されるのであればそれは自由ですが、「芸術大学で教鞭を取る友人」は本ブログでちらほら登場する人物なので、常連さん向けにそう記載した程度で特定個人の代名詞程度の扱いです。
      が、論理上そう解釈することも可能なので、それはお任せいたします。

      社会的権威の権威性自体は、それだけでは正しさに何の意味もなさないという点について今までにたくさん書いてきているので、常連さんから見れば改めて論じるまでもない部分だと思っています。

      1. ご返答ありがとうございました。
        「このブログでたまに出てくるあの人と一緒に言ってやったんだよ」という程度の意味だったのですね。
        社会的権威等の記事についても楽しく読ませて頂いていましたが、だからこそ少し引っかかりましたので、お聞きしました。
        まだまだ常連とは言えませんね。
        今後ともブログを楽しみにしております。
        このコメントは削除していただいて構いません。

        1. 僕としてはそのつもりでしたが、例えば初めて見る方であれば前後文脈的に特定の特性を持つ人たちに対して、社会的権威の「権威性」を利用して排斥することを意図していると推測されかねないのは、解釈可能性的に事実だと思います。

          そうした引っかかりは大切だと思っていますし、具体的な部分を示しながらお聞きいただくことはありがたいことだと思いますので、頂いたコメントは残しておこうと思います。

          なお、言われた側の友人も芸術大学で教鞭を取る共通の友人も含め僕たち3人は友達ですし、会話はただの談笑のうちの断片であり、特に争っていたわけではないということを推測していただければと思います。

          引き続きご愛読下さいませ。

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