克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になる

克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になるという感じで、よくありがちな「克服しよう」という方向性自体が、目的と逆行してしまうというパラドクスについてでも書いていきます。

うつを自力で克服する」では方便的に便宜上克服という言葉を序盤に使っていますが、苦手の克服にしろなんにしろ、「克服する」という考え方自体が、対象に対する執着と「自分への影響力の肯定」になってしまい、結果的により盲目的に克服とは逆行した働きをしてしまうという感じです。

そう言えば、検索流入を見ているとニヒリズムの克服であったり、ルサンチマンの克服であったりという感じのキーワードが稀にあります。

ニヒリズムやルサンチマンなど、所詮主義的で学術上の定義くらいのもので、それを知ったからと言って克服できるわけではありませんし、根本的に克服するような性質のものではありません。

苦手を克服するとか、ネガティブ面を克服するというような発想自体が体育会系的であり、基本的に何事も気合と根性で突破できるような性質のものではないということをお伝えしておきます。

何かを克服しようとする時

対象は何でもいいのですが、何かを克服しようとする時、その対象に対して「力」を与えている状態になっています。

重要度をより高め、かつ自分には力量不足であるとかそうした観念を強化することになり、さらに、克服することが必要であるという感覚から視野が狭まり盲目が発生します。

そしてそんな感じで何か障害となっているものを潰そうというような発想こそが、純粋な意図を妨害する抵抗となるです。

過去の延長で考えている

何かを克服しようとする時、たいてい過去の延長で考えているはずです。

普通はトラウマの克服であるとかそうしたことは、過去の出来事に原因があるので、そうした過去の記憶に対して何かしらの働きかけをしようとするはずです。

そうしたものは、「過去のデータ」のようなものを現在再生しているから起こるだけであり、本来は現在以降に関係がありません。

ただ、もしその「再生」がどうしても起こってしまうのであれば、カンフル剤的に記憶の再生に対してのリアリティを下げてしまうという方法があります。

過去の延長で考えて対象を克服しようとするよりも、過去のデータの再生が起こりえないほどに現状以降の世界にリアリティを持つことです。そうすれば自然とそうしたものは力を弱めます。

これについては後述しましょう。

他人の意見に反応している

対象が克服すべき問題であるということは、自分自身で自然に思うこともありますが、たいていの人たちは、周りの状態、環境に反応しながらしか生きていません。

自然発生したと思っていても、そのきっかけは外界からの情報が発端になっているという感じです。

人によって印象は異なりますが、「聖者」というものは、結局の所、ゲームの中のキャラクターであったものが、その世界から飛び出し、ゲームのプレイヤーや開発者になるということです。

通常は周りに反応しているだけなので、開発者の設計やプレイヤーの操作に反応する「ゲーム中のキャラクターにしかすぎない」という感じになっています。

「聖者になる」というのは、将棋の駒だったものが、棋士になるという感じです。

哲学的・論理的な「思考の限界を超える」という場合は、克服とは少し違った様子になります。

しかし、目の前の問題視されている問題、特に社会的な課題に対して克服という目線を持つことは、それとは全く異なった形になり、単に他人の都合によって他人の言動によって重要度を高められ、反応しているにしかすぎないのです。

克服しなくても対象が勝手に問題ではなくなる

例えば中学生の時、数学が苦手で克服する必要があると考えていたとします。

30歳になって、普通に働いていたりすれば、その苦手は何の問題でも無くなっているはずです。数学自体が数学を利用する専門職の人以外特に重要ではありません。

今それを克服したわけではないのに、問題が問題でなくなっているはずです。

克服の対象などその程度だと思っておきましょう。

では、どうすれば克服の対象が問題ではなくなり、克服自体が必要ではなくなるのか?

それはすごく簡単です。

現在自分が持っている枠組みをビジョンの中ではるかに超えてしまえばいい、それだけです。

「自分が今以上に幸せになるためには、対象を克服する必要がある」

たいていはそんな事を考えているはずです。

でないと克服しようとすら思いません。

そういうわけで、克服することを考えますが、そうした考え、対象の抽出自体が、「現状の自分」が見つけて考えたことです。

例えば、5年先により優れた想像もつかないほどの素晴らしい人生を送っている自分になったつもりで、今の自分を振り返るように見つめてください。

「青いのう。そんなことどうでもいいのに」

という感じになるはずです。

で、今の自分が見つけた「克服すべき問題点」に意識が集中すればするほど、それ以外の方向性、方法論が見えなくなります。

例えば労働組合の活動で労働環境の改善を声高々に叫んでいたとしましょう。

しかしそれは現状の自分が、今の環境を維持しながら、今後いかに楽をするかという目線です。

労働環境の改善を叫ぶのはいいですが、そんなことよりも、「もっといい所に転職しよう」とか「起業してやりたいことをやってみよう」とか、そうした可能性も十分にあるはずなのに、「組合活動を頑張る」ということしか考えられなくなります。

人前に出るときに緊張してしまうのなら

例えば苦手の克服の一例として「人前に出るときに緊張してしまう」という感じのことがあるとします。

実際に緊張してしまいますし、緊張しないでおこうと思えば思うほどさらに緊張するはずです。

苦手を克服しようとすればするほど、さらに緊張してしまうというものです。「緊張してしまう癖を克服しよう」と思えば思うほど、緊張してしまいます。

その原因として過去に遡って考えた場合は、過去の体験の体感記憶、情動記憶が原因となっています。

だからこそ、科学的で古典的な方法としては、そうした体験の記憶を思い出してしまう時、その記憶のリアリティを弱めることによって、影響力を少なくしようということが提案されます。

よほどの領域にいるものでない限り、現在の五感の認識に加えて記憶をベースとした意識状態を複合的に心が捉えています。

であるならば、記憶から起こる意識状態の割合を減らしましょう、というのが、リアリティを弱める方法論です。

それも確かに有効ですが、最も手っ取り早いのは、そんな領域から抜け出してしまうことです。

例えばお得意さんにプレゼンテーションを行う時、相手が決定権を持ち、相手のほうが上だと思うような体育会系思想があると、緊張します。

でも相手が幼稚園児だと思えばおそらく特に緊張しません。

それくらいに意識は身勝手です。

であるならば、すごく簡単で、もし体育会系思想を持っていたとしても、相手が母校の後輩だと思うと大丈夫になるはずです。

世間の全てが友達であると思っておけば、友達に語るのだから特に緊張はしません。

と、ここまでは一般論的ですが、そう思い込もうとしてもなかなか思い込めずに困っているはずです。

ということで、新人営業マンであれば、5年後に自分がその会社の社長になるか、伝説的営業マンとなり、他社からも引く手あまたであるというような状態をキープして語ってみましょう。

社長か伝説的営業マンであるのだから、パワーバランスはこちらに軍配が上がっているはずです。

その状態をキープすると、勝手にそのような気迫になっていきます。そして現実が追いつきます。

「この会場にいる誰よりも、私は知っている」

と思えればもちろん余裕ができます。

そして、プレゼンテーション資料を作ったのは自分ですが、「この会場にいる誰よりも、私は知っている」というのは本当です。

その事実に対する評価を低く見積もりすぎです。

意識状態の克服

そういうわけで、ニヒリズムの克服やルサンチマンの克服みたいな感じで、意識状態の克服をしようとする人もいますが、そんなことはする必要がありません。

むしろ意識状態の克服は、その意識状態自体を肯定し、力を認めることになります。

世の中は何かと具体論が好きな傾向にあります。特にインターネットの世界では、具体的な解決策が好まれる傾向にあります。

そうした各論的なことを一つずつ知っていくというのもいいですが、そうした各論を語る前に必要となる総論、総則の部分があまりにも抜け落ちているケースがよくあります。

「腹痛に悩む人には乳酸菌」

というのはアフィリエイターの発想です。

腹痛には身体の冷えや意識状態など、他にもたくさんの要因があります。

というのはさておき、何かを克服しようと思う時は、その先に「より良い状態がある」と思っているからです。

そして、より良い状態へと向かおうという意図があるのであれば、それを近視眼的に捉えずに肩の力を抜いて意図に忠実になってみましょう。

そうすると、その克服すべき対象が本当に必要条件なのかということが疑わしくなるはずです。

必要であるということは、必ず要るということです。極端に言えば、無いと死んでしまうことです。

だいたいある主義や主張について真剣に考えているような人でも、「本気でそうした世の中になるようにと奮闘している」というより、「それをもって誰かを説得して、結果的に自分が心地よくなりたい」というだけだったりします。

厭世主義や退廃的な感覚は、うつ状態の自分に酔っているような感覚があり、むしろ現状を肯定し、周りの人たちを使役しようというような他人依存の傾向があるような気がします(「うつ」という成功法則から脱却しよう)。

「何かを解決しなければならない」

それはアイツの屁理屈です。

自分の頭で考えた問題点など、解決しなくても構いません。

本当に必要な問題ならば、無意識が勝手に解決するでしょう。

体温が下がり過ぎたら体が震えて体温を高めるように、本当に必要なことは無意識がやってくれます。

今の自我が考えた「克服の対象」など、苦しんで克服したところで何にもならないのが常です。

過去の記憶や他人からの要請に反応などせず、思いっきり素晴らしい人生を思い描いてください。

「これの克服に何年もかかっていて」という場合は、既に何年も生き延びているのだから大した問題ではありません。

それが本当に必要なことならば、解決に必要な情報は自然と入ってきますし、必要な問題は勝手に解決していきます。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

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