僅かな服用量

自然界の中では、すごく危険な植物をはじめ、ちょっとの量でえらい目にあうような物質が意外とたくさんあります。

触っただけでもダメというものもありつつ、でもたいていのものは大丈夫なので普段はあまり気にしていませんが、ある植物の葉っぱでおしりを拭いて、その激痛に耐えかねて自殺したと言うケースもあるほど危ない植物もいるくらいですから、むやみに自然界のものに手出しするのは危なかったりします。

虫刺されでもすごく強烈な毒を持っている虫もいますから侮れません。ブトでもあのサイズであの腫れ具合ですからね。

必要量や摂取量

まあそんなこんなで食べ物に関してもいろいろと気にする人もいますが、サプリメントなんかが出だしてからはそれがビッグビジネスとなり、何でもかんでも物理的に何とかしようとする社会になりつつあるような気がします。

仮に物理的に考えたとしても、少し考えてみれば、食べ物に含まれているものが体の中で分解されたり、合成されているようなものもサプリメントで摂らなければならないというような脅迫じみた広告が多いような気がします。

必要量や摂取量単位で考えてみたりするのは、そうした分解や合成を知らされないまま、結局表面上の数値的なロジックの中に隠されたフェイクにまんまと騙されているといった感じです。さらにいうと吸収については無視されていますからね。

専門性故の盲点

「前提となる知識がなければ、目の前に提示さても本質を紐解くことができない」

これはどの分野でも同じですし、専門家でも専門性故の視野の狭まりによって見えなくなっているというケースもよくあります。

特に広告屋やマーケティング担当は販売数を最大化することが目的ですから、都合の悪いことは隠します。

というよりB層に合わせて雰囲気でやっていますから、本質のお知らせを期待することはできません。

まあ確かにある程度のことは理論的に合っているとは思いますが、本質からズレているということもよくあります。

例えば医者に行って「腰が痛い」と言っても、レントゲンを撮って何もなければ「何も異常はありません」と言われたりします。特に整形外科なんかに行ったらそんなことを言われるでしょう。

でも、腰の痛みは腰の筋肉から来ていて、その腰の筋肉の負担は、内臓をかばって姿勢が悪くなっているからというケースもあるのです。

痛いということは、直接的でなくとも何かの原因があるはずです。

でも整形外科という専門性が、仮説立てすらできないほどに盲点を作っているのです。

それと同じように、薬についても専門性故の盲点が出てきます。

薬だけでなんとかしようとする精神科医はその典型例でしょう。

「休みを取ることが難しそうだったら『休養が必要だ』という診断書を書くから、温泉にでも行って美味しいものでも食べておいで」

そんなことが言えるような人なら、期待はできるかもしれません。

僅かな服用量 曙光 534

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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