偉大な慈善家ルター

ルターが及ぼした影響の中で、最も意義があるものは、聖者たちに対し、キリスト教の観想的な生活全体に対して、彼が喚起した不信にある。それ以来はじめてヨーロッパで、非キリスト教的な観想的な生活への道がひらけ、世俗的な活動と世俗人に対する軽蔑が制限された。 曙光 88 序

ここで言うルターは、もちろんマルティン・ルター(Martin Luther)、1500年代に活躍したドイツの神学者です。世界史なんかでも習いますね。ローマ・カトリックからプロテスタントという宗教改革で有名な人物です。

ちなみに、ルターは暴飲暴食、肥満、痛風で有名だったようで、便秘持ちの痔持ちだったということが何かの書籍の注釈に書いてありました。

クリスチャンの思い切りのよさ

さて、クリスチャンはその宗派を問わず、時に思い切ったことをよくやります。マルティン・ルターを筆頭に、日本で言えば天草四郎や近代日本でもナチスの迫害を受けるユダヤ人に通過ビザを発行したセンポ・スギハラ(杉原千畝 「人道の港 敦賀ムゼウム」)、同志社大学の創立者、新島襄などなど社会的規律、制度を無視してでも断行するといった、キリスト教に支えられた思い切りの例はたくさんあります。

マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などなどで対比されるカトリックとプロテスタントですが、その最たる特徴の違いは、組織の上位にいる人間という存在の権威を認めるか、聖書だけを基準とするかというようなところにあり、とにもかくにも「良心」を基準としていたというところに思い切りの原動力があります。

センポ・スギハラで言えば、勤め先の外務省がダメだと言ったことも良心に従って断行します。そこには社会的権威よりも神が上位であり、通過ビザを発行する相手は構造的に見ればクリスチャンと対立するユダヤ人ですが、この良心こそが正しいという信仰に支えられた確信があったはずです。

また、以前同志社大学の某有名な教授に新島襄の違法海外渡航お話を聞かせてもらったことがあるのですが、その思い切りのある行動の裏にある信念には、神と対比した場合における自分自身に対する不信があり、ただ無謀に突き進むのではなく、神のように完全でない自分というものを客観的に眺めながら思い切りの裏で入念な準備をしていたということのようです。

聖書のフレーズが頭に浮かび思いが切れる

新約聖書を丸暗記するほど読んでいれば、ふとした時に聖書のフレーズが頭に浮かんできます。

「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。― まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」

「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」

ふと恐怖心が起こった時に、同時にこのようなフレーズが頭をこだますれば、思い切って断行することができます。

意図から抵抗を除く良い例です。

偉大な慈善家ルター 曙光 88

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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