体験の非日常性

非日常的な体験をすると、意識がカーッとなり、平常時では考えられないような意志決定をしてしまうことがあります。

それが「人から仕掛けれたこと」ならば注意が必要になりますが、そうした一種の狂気、一種の強い変性意識がないと事を成し得ないという場合もありますし、そうして起こった現象がすべてダメなものかといえば、そうでもありません。

合理性から考えれば非合理な男女の仲

合理性から考えれば非合理な男女の仲においても、一種の非日常があるからこそカーッとなり、論理性、合理性を超えて、非合理な方を選んでしまうということが起こります。

しかし、それは経済的尺度などから見れば非合理的であるように結論できたりもしますが、本来人がどう生きるかという面は、文献で語られたり、経済的合理性だけで判断されえないものでもあります。

「彼女を作るとバンドに集中できなくなる」というようなことを言われた高校二年生くらいの時、あえて女性を避けていたことがありました。

まあ確かにその方が、音楽仲間を増やしたり、思いっきり動けたりもしたというのは事実だったかもしれません。

代替性なき無限大の価値

ただ、小学生の頃から今でもずっと変わらない思いとして、ドラマなどでよくあるような、「進学や就職によって二人が別れざるを得ない」というようなシーンに違和感を感じていました。

僕は「逆だろう」ということを思っていました。

なぜなら、当の彼女は、代替性がなく、学校や仕事は代替性があるからです。

当時はそんな言葉で考えてはいませんでしたが、彼女はこの世にただ一人、でも、学校や仕事は他に代わりがあるという感じで思っていました。

高校生当時、その頃は「彼女がいないのであえて今は避ける」という感じでしたが、彼女がいたならば、その人を置き去りにしてまでという感覚はなかったはずです。

まあやはりその根底にあるのは、ピーコちゃんたちインコとの生活で感じた思いだと思います。

小学校低学年の時に、「ピーコちゃんを一億円で売ってくれと言われても売らない」ということを思ったからです。

その一億円で何羽もインコを飼えばいいだろうということにはなりません。

そうした一種の非合理的な狂気や執著とも取れる思いは、一方で制限にもなりながら、一方で制限の中で状況を創造するクリエイティビティを生み出したりします。

そして、様々なミクロ的視点を生み出すことも叶えてくれます。

「世の中は唯物論だ」などと言いながら、金銭消費による満足を最大のものとして扱っている人たちが感じ得ないような、ささやかな美しさを感じることができるようになります。

そんな感じで、代替性なきものの価値は無限大であり、計測することはできません。

無理にはじき出すことはできるのかもしれませんが、主観的な効用は、客観的な効用とはまた異なるので、他人にとやかく言われる筋合いは無いのです。

彼女やインコ等々を「代替性があるもの」と考える人がいるとすれば、それはきっとまさにすべてを物扱いした上で、表面的な効用で都合よく自分を気持ちよくしたいということを思っているということになるでしょう。

ただ皮肉なことに、彼女にしろ、インコにしろ「代替性がある」という思いを持っていると、全てを金銭換算することが可能になり、その金額に応じた分の効用がもたらされるということになれば、その人の感じ方には金銭的な有限性があります。

片や価値は無限大なので、比較にならないほどの差が生まれるということになります。

100億円積まれ「心の底から私を愛してくれ」と言われようが、行動を約束することはできても感情を約束することはできません。もしそれに乗ったとしても、興味があるのはお金の方で、それをくれた人ではありません。

100億円積まれても手放すまいと思える対象とのコミュニケーションは、100億円以上の価値があります。もうその程度までいけば数字が何倍になろうが、関係なく手放さないということになります。

という論理を展開してみれば、経済的合理性が陥る誤謬も見えてくるはずです。

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