体験する主体としての一人称感覚

好き嫌いの範疇になりますが、幼少期の頃から「浅いもの」が嫌いであり、浅い付き合いも好きではありません。

「人馬一体」という言葉がありますが、人馬が一体になろうと思えば、相手のことはもちろん自分のこともよくわかっているという状態でなければなりません。その上でいかに信頼し、双方が自己開示するかというところが、人馬一体を叶えるものであると思っています。

それは相手が人でも動物でも機械でも同様です。

人馬一体感

自分が相手を操るという感覚、一方的に自分が相手を利用して楽しませてもらうというという感覚では、「浅いもの」になり、「浅い付き合い」になります。

そんな感じで、「人馬一体感が好きで、浅いものが嫌い」という感じなので、「夜の街」などにも行かないという感じになります。

行ったら行ったで、最大限にその時間を充実したものにしようとはしますが、やはり一過性のエンターテインメントには、楽しみを見いだせないというのが本音です。

カラオケよりも、古くからの友達とバンド演奏をするという方が圧倒的に楽しく、その空間は、各々のパートナーや子供などですら入り込めない深いコミュニケーション空間となります。

体験する主体としての感覚が消える感じ

音楽をスマートフォンのペラペラのスピーカーの音で聞くのが満足度1だとすると、イヤホンで2、コンポで3、そこそこの音響機器で4だとしましょう。

そうなると、一人で楽器演奏するのが10、スタジオで仲の良い友人と演奏するのは100、実際にライブハウスなどで演奏し、盛り上がりでもすれば1000くらいだと思っています。

一種の「体験する主体としての一人称感覚」が消える感じが一番楽しいという感じです。フュージョンですね。

空気を引き裂く弦の音

字の如くの人馬一体

ただ、そうした深い感じが好きではありますが、「自分がどうあれば、なるべく早く深く人馬一体になれるか」ということを思って過ごしていたりもします。

人馬一体と言うと、一見、人が主で馬が従という感じがしてしまいますが、一応リーダーとしては人が主となるとしても、あくまで融合、一体になるというのがその本質です。

相手が生き物であれば、他心通によって心の状態を捉えることができます。

ただ、心の状態を捉えただけでは人馬一体にはなれません。

そういうわけで、最近は馬に付き合ってもらっています。

といっても「口に出して呟いて」で触れていましたが、先日は「たまたま行った」という感じでした(自馬会員の関係で投稿は控えています)。

ワンボーイ

この子は、すごく「走りたい」という気持ちを持っていてうずうずしている感がありました。

そんな中、周りの人たちと同じタイミングで、軽速歩に切り替えるという段になったとき、「合図すると飛ぶように走るので、その子は合図なしでいいです」と言われたりしました。

「あ~走りて~」という感が凄まじく、どんどん前に行くので抑えることばかりに集中せざるを得ませんでした。

それも気分を害さないようにという感じでです。

「いや~わかるけどなぁ」という感じで乗っていると「え~ほなら行こうや~」という感じがプンプンしています。

という感じなので、「行ったら怒られるで」と諭しながら乗ったりしていました。

人馬一体まではまだまだという感じでした。

その後、たまたま図書館で読んだ武豊氏の本に「走りたいという気持ちを持ちすぎている馬」としてバンブーメモリーが紹介されていました。書籍の中に紹介されていたスプリンターズステークスを観てみると、そんなバンブーメモリーの気持ちがよく表れています。

「電気が走ったように」という表現にふさわしく、残り200メートルを切ったくらいからの二回目くらいのムチの合図で、「行ってええの~」と強烈な末脚を見せるバンブーメモリー(1番の白の帽子です)。

最高にギターソロがハマったような爽快感です。それを弾いているのが友人のギタリストで、自分はベースを弾いているときのような時に訪れる心地よい感じがします。

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