人を信用することと人間不信

「人を信用することができない」

ということが人を苦しめる最たるものの一つです。

しかしながら、何事も信用し切ることはできませんし、かといって一切の信用がなければ社会生活はままならないという構造になっています。そんな中「信用しようとすること」自体が疑いを含んでいるため理屈の上でどう考えようがその信用問題についてはなかなか答えを導き出すことはできません。

そんな中、それを解決する方向性を示唆したのは、夏目漱石氏の「こころ」であり、その時に受けた衝撃は凄まじいものでした。「人を信用しない」ということに自分も含めるというような描写が良いヒントになりました。

人を信用するということに対して、「こういう場合は信用できる」とか「こういうタイプは信用できない」といったように何か汎用性の高い法則、判定基準などを求めたりもしますが、信用できるかできないかという感じではなく、自分も他人も「常に変化し固定的な観念は保持され得ない」ということを観察し気付いてしまうほうが手っ取り早いという感じになります。

人間不信に関する全ての問題が問題ではなくなるには、諸行無常と諸法無我と一切行苦に気づくということしかありません。

それでは、人を信用することや人間不信について触れていきましょう。

人を信用することはできない

まず第一に、いまなお僕は「人を信用することはできない」と思っています。もちろんその対象は自分の自我についてでもあり、他人についてもです。

人がお互いに信用しないと社会生活はままならないというのはわかりますが、人は信用できるとかできないとか、そうした二元論で紐解くことはできません。

「行動を約束することはできても、感情を約束することはできない」

というようなことを言っていたのはニーチェですが、その言葉に出会った時に「なるほどなぁ」と思いました。

「信用できない」といっても、社会で接するすべての人を無条件に信用できないというような人間不信ではありません。

「その人のその場の感情や評価、意志は変化する可能性を含んでいる」

という感じです。

だから期待もありません。そして期待が無いから怒りもないのです。

「人を信用することができない」ということが示すものは、人の感情や意志決定は信用することができないということになります。

確かにかつてその場、その瞬間に起こった気持ちや意志は、紛れもない真実であったとしても、それが永続することはないという感じです。

日常でもよくありますが、例えば営業をしていて相手が「すごく気に入った」などと言って契約をちらつかせたりしながらも、実際の契約が後日ということだったとしましょう。

その場合、その数日間の間に「営業対象のものを買おうかと思っている」ということを周りにどんどん吹聴していったりなんかして、周りの人が「やめといたほうがいいんじゃない?」とか「もっといいのがあるよ」などと言ったりしだせば、いざその後日の契約の段になって「ごめんねー」などと言って契約を断ってきたりという事が起こります。

達成すると変化する意志

全く何も現実には起こっておらず、期待という妄想が膨らんでいるときにはあったワクワクは、実際の現象の展開が進むに連れて変化していきます。

合間合間に他のところから情報が入ってくるということも意志の変化をもたらしますが、根本をたどると、それに注意を向けたからこそ情報を探したがるようになるという感じにもなります。

そして、恐怖心が根底にある中では不安の解消を軸として情報を探すようになります。そして知らぬ間に、元にあった意志はどんどん変化していきます。

それと合わせて実際に現象が現れた時、目的が達成した瞬間から、強い思いは急激に変化します。

同情を踏み台にして懇願していた人でも、実際にそれが叶うとその時の誠意はどこかに消えたりします。

例えば、お金を借りようとする人は、お金を貸してもらえるまでは誠意を見せたりしますが、それが手に入った瞬間からは意識が大きく変化します。お金を返済する段になって「無い袖は振れない」と居直る場合もあれば、「少し待ってくれ」と一瞬だけ演技かのような誠意を見せたりもします。

しかし、そうした局面が去れば、また誠意などどこかに消えたりします。

そのような感じで確かにお金を借りようとする瞬間にはそのような感情の状態、意志の状態にあったのかもしれませんが、目的を達成した段階でそれは変化し、状況に応じて意志などコロコロ変わっていくのです。

そういうわけで、人間を信用することはできません。

ただ、そうした意志への信頼や感情への信頼はさておき、社会においては半ば強制力によって行動の約束を守らせることはできます。

人間の意志や感情は信用することができませんが、金銭であれば差し押さえたりすることもできますし、何度も何度も催促することによって「嫌な感情からの脱却」という方向性で相手に行動を起こさせることはできます。

また、意志自体は変化していても、社会的な関係性によって「信用を失うと社会的活動がやりにくくなる」というような「裏切りへの抑止力」によって行動を促すことはできます。

人の意志や感情を「変化のないもの」として信用することはできませんが、日常においては何も「一切信用しない」ということをしなくても構いません。基本的には人の行動を信用し、行動の結果、物理現象としての結果にだけ着目してリスクを予防したり、問題があれば実力行使をすればいいだけだからです。

意図せず結果的に裏切る人たち

そのような感じで、いくら人当たりのいいことを言っていても状況に応じて意志は変化していくので、意図せず結果的に裏切る人たちというものに出くわす可能性が常にあります。

良い気分で契約していたと思えば、別件で事業がうまくいかなかったりして八つ当たりしてくる人もいれば、勝手に厚かましく解釈を変えて契約内容に文句を言ってくる人もいます。

お金を払うつもりだった人が、最後にごねて踏み倒そうということを思ってくる場合もあります。

そしてそこまでいかなくても、結果的に裏切られるようなことはよくあります。

「するつもりだったが状況が変わった」というような場合です。

始めから裏切るつもりはなくても、意図的に相手を陥れるつもりがなくても、予想していた流れとは別の流れが生じ、結果的に約束が破られることになったというようなケースです。

そこに感情的な期待を寄せていたのなら、その裏切りは耐え難いものになるでしょう。

行動的な面で、契約の履行などを強制するか金銭的解決をするかということはできますが、期待していたような感情が返ってくることはありません。

特に人間不信に苛まれたということではないのですが、「信用できるようなもんじゃないなぁ」と思ったことは十代から今に至るまで何度もあります。

同情を装い、毎日のように連絡をよこしながらデートの申込みをしてきた女の子が、ある日突然、少し前までお付き合いされていた元の彼氏から連絡が来て、その後しばらくして音信不通ということもありました。

そのような感じがしたので、特に惚れ込むということもありませんでしたが、「あの経験は何だったんだ?」ということを思ったという感じです。

罵声を浴びせてくるようなパワハラ上司にしても、全体的な営業成績が良かったり愛人でもできれば温厚になり、かけてくる言葉が変わるのだろうなぁと思いました。

その意志は案外安い

権利を主張する団体にしても、ネット上で罵詈雑言を浴びせている人たちも、おそらく「何かがうまくいっていない」というだけで、宝くじにでも当たればそんなことはしないんだろうなぁと思ったりします。

仮に「その行為をやめれば、最高のパートナーと限りない資産が手に入る」ということになったとしても続けていくのかが疑問です。

「私の意志はそんなに安いものじゃない!」

ということを言う人もいるかも知れませんが、例えば自分や自分の大切な人が難病にかかって、10億円あればそれを治せるという状況にあったとしましょう。資産はほとんどない状況でです。

そんな中「そうした活動をやめれば10億円とプラス生活費の10億円をあげる」と言われたらどうなるでしょうか?

僕ならおそらくその提案を受け入れます。

もちろん自分の資産状況やその活動内容にもよるでしょうが、だいたい何かの不満といった抑圧された感情を何かに八つ当たりしているにしかすぎなかったりします。

そして、そんな感じで人の志などすぐに折れるのです。

この「苦しみ」は人のせいではない

こうした感じで人間の意志や感情などあてにはなりません。

そして、ともすればそれは他人についてだけを考えてしまいますが、自分の意志ですら同じ構造を持っているということを忘れてはなりません。このあたりが夏目漱石氏の「こころ」によって気づかせてもらった点です。

で、人を信用出来ないという点において、例えば誰かの裏切り行為、意志の変化に辟易したとして、社会的に俯瞰すれば確かに悪いのはその人です。

もちろん自分のせいではありません。

約束を破った人が悪いということになります。しかし感情は約束することができませんし、思いや意志というものは常に変化するので約束のしようがありません。

社会的な非については、実際の行為行動としてその人に責任をとってもらえばいいということになり、あらかじめそれを防ぐということをしておくというのも良いでしょう。

「所詮人の気分などコロコロ変わるのだ」

ということを知っていれば、口約束の契約は危ないとか、後で横暴になってきた時に対抗できるようにしておこうとか、費用は先にもらっておこうとか、担保を設定しておこうということができます。

また、本当に契約するつもり、支払うつもりがあったとしても状況が変化するということもあります。

「支払うつもりだったんですけどねぇ」

なんてなことになると、会社の場合は、人件費を含めそこにかけたコストを負うことになるので、自分も自分の会社にも悪影響を及ぼします。だから、社会的な取引の場合はそのあたりを万全にしておくに越したことはないという感じになります。

ただ社会的な責任はそうした感じで何とかやり過ごすとして、感情面での期待に関しては、何ともなりません。慰謝料等々金銭的求償ということもできますが、感情の面で解決できるようなものではないのです。

そんな感じで社会的な見方をすれば、その裏切り者に責任を追わせればいいのですが、よくよく考えると「この心の苦しみ」はその人だけのせいではありません。

信用し得ないものを信用し、信用して期待を寄せたことが原因であるからです。

「感情や意志を信用する」ということはできません。その場の感情や意志は確かにその通りなのかもしれませんが、それが安定し固定的であるというのはまさに無明がもたらした錯覚です。

裏切らないものを求めて

そういうわけで、20代前半の頃は「裏切らないもの」を求めていました。それは信用、期待、それらから生ずる安心を求めていたということであり、裏切られることや裏切られる可能性を想起することで起こる苦しみから逃れたかったと言う感じです。

世の中では「お金しか信用できない」という事を言う人もいます。

まあ確かに行為や物理的現象に限定すればお金は安定的です。厳密に考えればインフレや税制によって変化はしますが、比較的安定はしています。

ただそれで叶うのは行為としての社会的関係性や物理的な領域くらいなもので、それで「裏切りのない感情」や「揺るぎない意志」が叶うわけではありません。

そんな中、「裏切らないもの」をもって、安心を得ようとしていましたが、その発想自体が誤謬であることに気づきました。

信用するとかしないとか、信用できるとかできないとか、いった形で考えると、期待もしくは絶望が生じ、いずれにしても苦しみが訪れるということに気付いたという感じす。

意志の変化の観察

だから「この心の動き、意識の働き」を観察し、社会における意志の変化などを観察することにしました。

「この意識も他人の意識も物理的な空間も、あらゆる関係性の中で変化し、今その状態になっているにすぎない。

変化によって生じたものは、また変化によって滅する。

この意志は変化によって『これはこういうものである』と判断し『これはこうあってほしい』期待といった観念を形成し、形成された観念が『こうあれば』『こうあって欲しい』が達成されるという判断の基準を作る。

接触から現象を捉え、判断の基準に従って反応が起こる。

その反応は時に快楽となり時に苦しみとなる。

それらは不確実性を持つため裏切りの可能性を常に孕む」

「しょうもな!」

というような感じで信用への希望や裏切らないものへの期待は無くなりました。

人間不信の裏返しである「人間を信用したい」というその手の苦しみは、すべて自分の内側で起こっていたことだったという感じです。

Category:miscellaneous notes 雑記

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