二種類の道徳学者

自然の法則をはじめて見ること、しかも全面的に見ること、それゆえ指示することは(例 略)、そのような法則を説明することとは何か違ったことであり、違った精神の持ち主の仕事である。同じように、人間の法則や習慣を見たり示したりするあの道徳学者たち― 耳や、鼻や、眼などが鋭敏な道徳学者たち― もまた、観察されたものを説明する道徳学者たちからあくまでも区別される。後者は何よりもまず発明の才がなければならず、また明察と知識とによる奔放な想像力を持たなければならない。 曙光 428

自然法則なら、まだかわいいものです。

その手法が道徳や宗教の領域で説かれるとき、それは狂気になります。

胡散臭い宗教においてはすぐに「熱心に信仰を示したから病気が治ったんですよ」なんてなことを平気で言ったりします。カルト宗教のみならず、比較的一般的な宗教においても同じようなことが言われたりするので絶望的です。

「拝んだから治った」がどういう法則なのかきちんと説明できる人に出会ったことがありません。

拝むと治るんですよ、と習ったのか、習った後にそれを裏付けそうな数回の体験があったのかは知りませんが、「どういう法則か」の説明ができる、という人に出会ったことがありません。

拝む対象に依存が生じること

「なんとか如来の力で」、というような苦しい説明は聞いたことがありますが、それはどういう法則かを説明していることにはなりません。まあ情報が書き換わったということなのですが。

実際に体が良くなったのであればそれでいいですが、体が良くなったことを根拠に「なんとか如来」を実在だと思ってしまうのは少し早急です。

そうしたものに問題があるとすれば、その拝む対象に依存が生じることです。そして「その対象のため」にと、変なことをしだしてしまうことです。

他の宗教分野でも「拝んだから治った」というようなことは起こったりしていますし、何かその「なんとか如来」のようなものに限定されて起こっている現象ではないということを知りましょう。

まだ「笑うと免疫力が強化される」の方が十分に分かる話です。丹田付近の血行が良くなりますから。それに意識から負荷が軽減するので、要らぬエネルギーを使わないということも十分に誰でもわかります。

そうした感じで「笑うことで免疫力が強化される」という話であれば、自分が笑っている時に、意識や身体にどういうことが起こっているか観察すればわかりますし、何となく確認することができるので安心です。

行動という現象

意識の中にエネルギーがないと、行動という現象は起こりません。

行動をよく観察してみると、手前には言語的非言語的問わず何かの動機があるはずです。行動という現象は、手前に動機というエネルギーが必要になります。

カルマの法則というカルト宗教の発想

そこで考えてみたいのが、カルマの法則などと言って悪いエネルギーを消すために、悪い出来事を受け入れようというようなカルト宗教の発想です。

悪いエネルギーを消すために、悪い現象を受け取ろうとするのは狂気です。罵声を浴びたから何かが消えるというのはおかしな話です。

何かのエネルギーが増えることはあっても消えることはありません。起こった現象から情報を含んだエネルギーを得るとまた、そのエネルギーは吐出口を求めて行動を起こしたりするだけのこと。

何かで上書きしようとしても、それほど簡単に上書きはできません。一度は上書きされたかのようなものが優勢になるだけで、無くなるわけではありません。たくさん良い思いを味わえば、それがほとんど優勢になります。

しかしながら薄まりはするものの、無くなるわけではありません。一時的に踏み台として活用してもいいですが、そんな変なことをしなくても、何かが起こってもその場で無効化すればいいだけです。

結果を次の原因にしないというということです。

ただ、スクリーンに映るストーリーに、ただ、アイツが騒いでいるだけなのですから。

二種類の道徳学者 曙光 428

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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