ズレたずるむけ感とクラブゲッパ―

音楽を含め芸術や文化の分野においては、各々の人が持つ捉え方があり、感受性や総合的な視点のあり方などによって感想というものは千差万別になっています。

一般的な歌がつく楽曲に関しての感想も、楽器を演奏する人たちは各音について具に聴いていたりもしますが、全く無縁という人にとっては、歌詞が重要な要素として位置付けられていたりします。

しかしながら個人的にはやはり昔から楽器を触ってきたということもあってか、小学生の頃から歌詞に対する比重はあまり高くなく、全体像や各パートの音の方を重視して聴く癖があります。

そうした差異自体はいいのですが、近年コメント機能がついた動画共有サイトという場が一般化してきたため、「さすがにズレている」とか「ずるむけ感がすごい」と思わざるを得ないようなものが意図せず目に入るので違和感を感じたりしています。

「ズレている」というのは仕方がないのかもしれませんが、いわば個人的に思っておいたり、友人との語らいでつぶやくようなものが一般公開されているということに違和感を感じます。

たとえ歌詞に着目したとしても、全体を通してみれば主題となるテーマは違うだろうと思うようなことであっても、冒頭のキーワードから連想して、自身の弱った感情を吐き出しているというようなケースがちらほらあります。

各々の解釈があっていいということであっても、さすがに制作者からしても「…」となっているような感じがしてしまいます。

そのような解釈をしてしまうというのは、読解力や直近の感情の問題であり、別にその人の内側で起こったこととしてはそれでいいのですが、それが意図せず目に入ってしまうという点に少し辟易したりもします。

現在、意識を占めるもの内、重要度の高いものから連想するというのは意識の機能であり「癖」ではありますが、ずるむけ感満載の内容をさらに一般公開状態にするという二重のずるむけ感が、アウラの喪失のような文化的な情緒を削ぎ落とす要素として、消極的に働いているような気がしてしまいます。

口呼吸ゲッパ―

そんなことで思い出したのが、ある時クラブ(音楽が流れる方)で出会った体育会系口呼吸ゲッパ―です。

これは僕がクラブという場所にもう二度と行かないだろうと思った思い出の人であり、「音楽としての要素よりも別のものが求められている」ということが如実に理解できたという瞬間をもたらした人であります。

二十代の頃、女性の友人に頼まれ、一緒にクラブに行くことになりました。その友人の友人である女子2人も一緒にということだったので、男1と女3で行くことになったという感じでした。

その頃より少し昔は、少なからず音楽自体を楽しむという感じがあり、多少別の文化的要素があったとしても軸は音楽でした。

しかしながらその時は既に軸がムラムラであり、次には酩酊によるカタルシスであり、音楽などそれらのために変性意識をもたらすためだけのものというような位置づけに感じられてしまいました。

その程度ならば、まあまだ良かったのですが、「一応最近はどんなものかとやっては来たものの、つまらないなぁ」と思って帰ろうとした時のことです。

友人女子たちに帰ることを伝えようと近寄ったのですが、爆音で音楽が流れているため、言葉がなかなか伝わりません。

なのでさらに近寄って帰ることを伝えようとすると、女子の脇にいた胸板強調系の体育会系が、「ナンパ中の女子を横取りするな」と言わんばかりに胸ぐらをつかんできました。

僕としては「自分だけ先に帰るか、自分は帰るので君たちも帰るのなら一緒に出ようか」というようなことを伝えようとしただけですが、ベロベロに酔った体育会系は、僕の胸ぐらをつかみながら口呼吸をし、挙げ句爆音に負けないほどのゲップをしてきました。

「こうなったらこういう場も終わりだなぁ」と思いつつも手を払い、そそくさと帰ることにしました。

「僕は藤子・F・不二雄育ちなんですよ。

ジャンプのヒーローに憧れて、結局悪の側になっているような体育会系とは違うんです」

というようなことを思いながら、そんなムラムラ解消を意図する体育会系ゲッパ―に侵食された場にはもう二度と行くことはないだろうというようなことを思いました。

Category:music 音楽

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