京都の地下鉄に乗ると「サブウェイ カラスマライン」という言葉が聞こえてきたりします。外国人にも聞き取りやすいようにということなのか、固有名詞である「烏丸」まで外国人風に発音したりしています。
そんなことだからいつまで経っても外国人がきれいな日本語を覚えることができないのです。サブウェイやラインについては外国人に合わせてもらっていいですが「固有名詞まで発音を変形させるなよ」ということを思ったりします。
それについては後述するとして、ひとまずは、言葉の変な省略、略語についてから進めていきましょう。
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ファイナルファンタジーのことをファイファンいうのは公式的には邪道とされていますが、「公式見解としてはエフエフです」といった当の会社の人は相当頭が悪いということはすぐにわかります。
なぜなら「FF結構面白いね」ということになれば、今までFRなどに乗っていた人がFFに乗った時に発した言葉と区別がつかないからです。つまりフロントエンジンフロントドライブですね。
それにFFなど当のゲームが発売されるより遥か昔からあります。
同様にセブイレのことをセブンなどと言ってしまえば、8と比較しての7の類と区別がつきません。RX-7とRX-8、Windows7とWindows8のような場合ですね。RX-7の場合はFCやFDなど型番を呼ぶので、結局セブンという単語は使いません。
パ
後何でもかんでもパーティーを「パ」と略すのはいかがなものでしょうか。
パフォーマンスなのかパーティーなのかわかりません。
まだ、「パ」だけならいいですがその前につくものまで略されると、もうどっちかわかりません。
「リリパ」などと言われると、新作発表の際の「リリースパーティー」なのか、パズドラの「リリス攻撃9倍パーティー」なのかわかりません。
パピプペポのような半濁音は唇の破裂的な振動で性感が刺激されます。
やたらと「タコパ」「コスパ」などと言いたくなるのは、おそらく自慰的行為なのでしょう。
みごとにお菓子メーカーの戦術にのっているようなものですね。
マック
しかしそんなことよりもっと悲惨な単語があります。それはマックです。
マクドナルドとマッキントッシュ、そのどちらもマックなどという呼び方をすることに違和感を感じない人は頭が悪い。それは当の外国の人たちを筆頭にこの呼び方をしている人全員に唱えたいですね。
こういうものは芸人が芸名をつけるときに「日常でよくある単語を使えばそのたびに思い出してもらえる」という類と同様のことであり、「海砂利水魚」から「くりーむしちゅー」に改名するようなケースと手法は違えど、目指すポイントは同じなのだということになりますね。
ただおそらくですが、当の関西系の略語は標準語圏の方には発音しにくいのではないかと思っています。
関西の人間が標準語を習得するの簡単ですね。イントネーションが一定、頭だけ強調すれば事足りる上にテレビなどでサンプルもたくさんあります。
しかしその逆場合、関西弁たるものイントネーションがバラバラで、習得は数十年単位を覚悟しなければなりません。
サブウェイ カラスマライン
それよりもっとひどいのは、昔「ゆるせない話」でもありましたが、外国人に合わせて日本語を発音してしまうことです。「すし」や「てんぷら」ですね。
「サブウェイ カラスマライン」という言葉は、「Subway 烏丸line」であり、地下鉄烏丸線です。英語である「Subway」や「line」については英語の発音でいいですが、なぜ固有名詞である烏丸まで英語風にされなければならないのか、ということです。それではいつまで経っても外国人がきれいな日本語を覚えることはありません。
外国で日本語圏の人、つまり日本人に合わせてそうした配慮をしてくれる事はありません。
だいたい外国人、とりわけ侵略する側だった白人というのは、自分たちに合わせるように要請しながら、自分たちは相手に合わせないというのが基本であり、ムンバイを勝手に「ボンベイ」と呼んだりしていたりします。その延長で烏丸を「キャラシュマ」のように発音するのはやめてくれということになります。
そんな感じで、そのような感覚の人たちに固有名詞まで合わせる必要があるのかということを思ったりしてしまいます。
あと、おにぎりやたこ焼きのことをライスボール、サムライボールというのは許せません。おにぎりは「おにぎり」という語感もふくめておにぎりのはずです。この繊細な感覚は力任せの外国人には理解できないのでしょう。
おにぎりを紹介する時は、ライスボールかサムライボールと言えば良いですか? 知恵袋より
おにぎりと言いなさい!
だからいつまでたっても流暢な日本語を話す人はあまり出てこないということです。
「サブウェイ カラスマライン」と言うのはいいですが、烏丸は正しい京都弁で言っていただかなくては困ります。気分的なものですが。
そうなると語感も理解できないような外国人が翻訳で読んだ「雪国」はどんな作品だったのでしょうか。雪国も素晴らしいですが、同レベルの作品はたくさんあります。しかし日本人は2名しか受賞していません。
それは日本の文学のレベルの問題ではなく、彼らの感性の問題なのでしょう。本当に日本語の語感を感じているのかは疑問です。翻訳でしか読めないような人が日本の文学の審査をしてはいけません。ノーベル文学賞というものは、そんなにたいしたものではないのでしょう。
言語的鎖国
ドラッカーによると日本が「経済侵略」されない理由として、CEOのような類は仕事が数字的なので外国人でも務まるが、現場の管理職は外国人に任せられない、なぜなら日本語は容易に習得できないからだ。という類のことを言っていました。
そして、言語的鎖国のおかげで、侵略されなかったにも関わらず、やたらに英語を学んでしまって、本当に日本人全員がペラペラに話せるようになると文字通り侵略が始まり、日本の企業のほとんどは買収されることになる、というようなことを言っていました。
研修ビデオ
研修ビデオという類は、たいていというか絶対に標準語で作られています。自社自作モノなら別ですが、たいていはそういう物を専門につくる会社が制作しているので、標準語になります。
見ていて動作や理屈などを学んで「ふーん」となる分にはいいのですが、「さあ皆さんでやってみましょう」というような瞬間の時に背筋が凍るのは標準語圏の方には理解できないような瞬間だと思います。
ビデオのままの標準語でロープレをするのもおかしな感じがします。
地元の言葉に変換しようとすれば、なぜかテレビで無理やり関西弁のセリフを言っている俳優のようになります。
その寒さに耐えきれません。
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