よい自然と悪い自然

自然か人混みかの二択なら、断然自然によく行きますが、三流のコンサルですら何かの本で読んで知っているように、自然を見て「いいなぁ」と思える原因としては、「視界が開ける」ということが一つのポイントになります。

これを何処かでサービスとして味わおうとすると、ただ単に視界が開ける、ということを味わうがために料金は数倍になったりしますが、それでも需要があるということは、それだけ不自然な状態の中にいつもいるということでしょうか。

自然はいつでもどこでもそこにあるのに、それに目を背けているために自然を求め、無駄にお金を払って自然っぽいものを享受しに行くというような有様です。

空間の認識として

自然の中で、どこまでも視界が開けているように見えても最後は霞んでたいてい白みたいになります。

じゃあ結局ずっと先までは見えていないというか色としては白か青かみたいなところですが、空間の認識として「巨大な空間」を感じれればそれでいいということになりましょうか。

小さな空間でも大きく感じさせようということで部屋の壁に鏡を貼ったり、自然の色を取り入れよう、ということで茶色の木をわざわざ壁に打ち付けたりしますが、「弱者のあがき」のように感じてしまいます。

それでも、まだ本物の木を使っていたりするのでマシですが、ひどいものは「畳風の何か」だったり、「竹風の何か」だったり、わざわざその素材の感じが出るように表面をボコボコにしたりしています。が、本物ではありません。

それは銭湯にあるタイル画で空を感じろと言っているようなもので無理があります。あれはあれで好きですが、「畳風の何か」は好きではありません。

空間認識をちょっとだけ突破

三次元、つまり立体認識というものは、普通にしていたのでは、一瞬でも取り外すというのは無理かと思います。デッサンのコツは三次元体を二次元的に捉えて光と影、明暗だけで捉えるという能力が培われますが、それでもそれは変換能力なので、少し違います。

普段は部屋が狭かったり、天井が低かったりして、圧迫感を感じていたとしても、ちょっとだけ意識を変えるだけで空間の圧迫感はなくなるようになります。

物理的にその圧迫感を変えるのは「インテリアにこだわる人」にでも聞いて頂ければいいですが、そのようなことではありません。

「空間デザイナー」が取り扱えるのはアイツによる普段の認識の領域なのですが、ここでお伝えするのは、それとは異なります。

アイツ騙しに近いようなことですが、一つの面白い経験でもあります。集中というものが、「体育会系のように力むことではない」ということがわかるかもしれないようなことです。

仰向けに寝転がって白い紙を見続ける

非常に簡単です。

仰向けに寝転がってコピー用紙でもなんでもいいのですが、顔、というより目の上に真っ白か真っ白っぽい無地の紙か、布でもかぶせてそのままそれを見続けてください。

最初は紙や布の繊維のアラみたいなものが見えますので、それをよく観察して、また何も見ないというか焦点を合わせないというようなことを繰り返してください。

無理せず瞬きはしてください。ただ、目を閉じっぱなしはダメです。

そして、何かを捉える、ということを手放す、というか力を抜いたりすると、全てというか360度は見えていないはずですが、視界が全部真っ白になって、三次元的な認識が消えます。

慣れれば同一色の壁を見ただけでも同じことができるようになります。

もっと慣れれば、普通の景色や部屋の中を見ていても、空間認識が消えて、目の前が二次元のようになります。

さらに慣れれば、それぞれの光が見えるようになりますよ。元々、色や空間の認識は光の情報ですからね。

二つの方向

よい自然と悪い自然 曙光 17

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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