しかしわれわれは諸君を信用しない

諸君は人間通であることを示したがる。しかしわれわれは諸君の誤りを見落とさないであろう!諸君は、諸君がそうである以上に、経験が豊かで、深く、興奮し、完全であるように見せかけるということを、われわれは気がついていないだろうか? 曙光 545 前半

「わざわいだ!偽善の律法学者パリサイ人よ!あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする」

ということで、「完全であるように見せかける」についてでも書いていきましょう。

マタイ23章ですが、すごく面白いですよね。

現代社会でも「ギクッ」となる人は結構いそうなものです。

典型例は「いい人だと思われよう」というものです。

また、「趣味はクラシック鑑賞だ」と、ただ高級オーディオを揃えてCDを聞いているだけでわかったつもりになり「得意なのはビジネスだけじゃないぞ。そういう感性も持っているんだぞ」とモテようとする人も典型例です。

表面上いい人のふりとかすごい人のふりをしていても、いずれ見抜かれますからね。

「しかしわれわれは諸君を信用しない」ということですが、人は自分も含めて完全に信用することはできません。感情や意志は固定的でなく、ある程度の方向性はあったとしても、あくまでその場限りのその状態であるだけだからです。

しかしそれ以上に「人を信用できるかどうか?」というところで言えば、本質や本心を隠し「信用できるかのように装う」ということがなされていたりするため、不本意に騙されないためにもそうした点については十分に観察をしておいたほうが無難です。

人の目を狂わせるものはたくさんあります。人は見た目が9割だとか何とかいって持ち物なんかで判断すると色眼鏡で世界を見ることになります。

もちろん表面上の行動で判断してもいけません。

偏見を除外して本質を見るということを決めてしまえば、案外すぐに見抜けるようになるものです。

やはり豹変した管理者

勤め人時代ですが、転勤でやってきたいわゆる支店のトップは、転勤初日にほぼ全員に「危ない」と気づかれていました。

表面上は、部下にでも丁寧な言葉を使うような感じで、一見思いやりがあるかのような行動もよく取っていました。

「差し入れだ」と言いながら、ポテトチップスやカップヌードルを買ってきて、「残業の時は好きに食べてくれ」というようなことをやっていました。

ところが面白かったのは、ほとんど誰もその差し入れに手を付けなかったということです。

唯一、仕事をナメきっている同僚だけが「貰っとかな損やん」といって、家に持ち帰ったりしていました。

そんなこんなで年末くらいだったか、その上司は豹変しました。

言葉こそ相変わらず丁寧なものの鬼の血相で罵声を浴びせ続けるのでした。

僕もそのとばっちりを受けました。

先輩に仕事のことを聞いたついでに二言くらい、先輩の前職の話を聞かせてもらったりした時です。

「ちょっと!」

と呼ばれ、

「仕事なめてんのか?仕事なめてんのか?」

と5分くらい罵声を浴びせられました。

まるで武○士です。

といっても、昔は「表面上優しさを装っていても、本質的には荒ぶる気質を持っている」といった感じで、奥にある性格を見抜けても、そこからどうしていいのかわかりませんでした。

今では無関係を選択しています。

人を信用することと人間不信

しかしわれわれは諸君を信用しない 曙光 545


社会では、罵声を浴びせるようなパワハラが問題になることも多いですが、定義上パワハラは、パワーハラスメントなので、嫌がらせ要素が必要になり、職場への悪影響が発生していることが定義上の要件となります。

そういうわけでただ単に客観的に暴力的な指導であるからといって即座にパワハラと判定することはできません。やはりその奥に「自尊心の補償」という概念や八つ当たり的な要素が必要になりますし、「職務上の立場を利用して」という面が重要になってきます。

しかしたまに「情熱のあまり暴力的になってしまう」という人がいます。そうした人はまだ良いような気がします。

パワハラの境界線

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ