さよなら2018

2018年が終わります。一応例のごとく2018年を少し振り返っておきましょう。

昔からですが、僕は戌年が嫌い、というよりもおそらく相性がよくありません。学年で言えば概ね一つ上であり、最も相性の悪かった人たちです。おそらくそんな事が関係しているのでしょう。

戌年の人には申し訳ないですが、犬や戌という概念すらあまり好きではなく、昔は戌年の「戌」という字を見ただけでちょっと嫌な気分になるくらいでした。

そういう感じなので「やっと終わる…」という感じがしています。

ただ、戌年ということもあってか玉サブローを発見したり、牧羊犬と触れ合うというような犬に関する出来事もよくありました。

と、犬についてはこれくらいにして今年を振り返っていきます。

咸く起こる不幸中の幸い

まあ戌年にちなんで咸(ことごと)くという字にしましたが、今年起こった不幸中の幸いについてでも一応記しておきましょう。

何かをやろうと思うたびに横槍が入り、という感じのことが多かったですが、おかげで見えていなかったものが見えたということがよくありました。

その中の一番のものはおそらく母の怪我です。怪我のおかげというのも変ですが、精密検査をしたら他の病気が見つかり、おかげで早期発見早期治療ということに繋がりました。

またサイコパス系のお客にあたることが多かったというのも特筆すべき点かもしれません。ただそれでも僕は平気なので、そうした人たちで遊びながらしっかりと収益を上げながら、さらに他の人用に汎用性のある対応策まで作り出すことができました。

そう言えば、真鍋島に行った時、だいぶ前から予定したにもかかわらず大型台風がやってきたりしました。それでも多少の影響は出たものの当日にはしっかりと現地に行ったりしました(晴れの国おかやま 2018 真鍋島)。

ただ、船が出港して途中で逆戻りしたり、真鍋島から北木島に行こうと思ったときには運航状況が変更になって真鍋島の滞在時間が伸びたりという感じで想定通りに事は運びません。

しかしながら、おかげで出港の直前に、旅の目的のひとつでありそれまでは確認できずじまいだった真鍋島の風習について確認することができたという感じになりました。

そんな感じで別に不幸中の幸いというより、何も困ったりはしなかったのですが、一番おもしろかったのはその理由が見えてしまったことでした。

流れが見えてしまう

「流れが見えてしまう」という表現も少し変ですが、現在の状態と因縁の状態、位置状態がわかるようになってしまいました。モッガラーナさながらです。

だから全てではありませんが、だいたい何事も何故か理由もその先も見えてしまうという感じです。そういうと「頭がおかしい」と思ってしまう人もいると思いますが、わかってしまうものは仕方ありません。

「何かをやろうと思うたびに横槍が入り」などと表現しましたが、詳細内容までは把握していなかったものの、それっぽい何かが起こることすら既に知っていたということです。

「それがわかっているならば」というふうに頭は考えるでしょうが、「それを意図的に避けてはいけない」ということすら知っていたという感じになります。

「たぶん途中で邪魔が入る」とか「想定通りにはならない」ということがなぜかわかってしまうという感じです。

想像通り想定が外れた

自分の表層上の意識に起こる想定は「前フリです」ということすら知っているという変な構造を持っています。「だからといって予定を変更してはならない」ということすらなぜか理解しているので、意識としての期待が外れたとしても、全く怒りも落胆もありません。

「想像通り想定が外れた」という一見意味不明な構造を持っていますが、これは後から「ポジティブシンキング!」をしたわけではありません。する前からわかっているのです。

「想定通りいったほうがいいだろう」と思う人もいるかもしれませんが、例えば映画のストーリー展開において何のアクシデントもないというのはあまりにも味気ないという感じで、そうしたことが起こること自体がストーリーの軸なのだということになります。

映画を観る時、どんな非日常の出来事が起こるのか具体的なところまではわかりませんが、「そろそろ主人公の身に何か起こるだろう」ということくらいは薄々予測しているはずです。

端的にはそれと同じような感覚だということになります。

意識の領域を超えている

そういうわけなので、前フリ系の年がもうすぐ終わります。なので、前フリは終わりなので面白いことばかりが起こるはずです。

2019年からの生活に必要のないものは次々と壊れていきました。

そういえば去年は何をつぶやいていたかなぁと思い「さよなら2017」を読み返してみると、面白いことにカルト教団とか脱洗脳なんてなことに触れていました。その数ヶ月後に実際に家にカルト宗教の勧誘の人がやってきたりしたのだから笑うしかありません(洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた)。

認知バイアスなんかが好きな科学者の人は、「そうした人たちとは普段も出会っているものの、おそらくカルト宗教とか脱洗脳という言葉に縛られたから、そうした出来事に意識が向いて気づいたのだ」と言いたいと思いますが、「家に勧誘にやってきた」のは今年が初めてです。

そうした科学者の人たちとしては、「普段はそこにあっても見えていないだけであり、そうしたものに意識を向けたからそれが見えるようになった」というふうに説明したがると思いますが、では、なぜ家に来たのでしょうか?

「実はカルト教団の人たちは以前から結構な頻度で家に訪問していた。しかし居留守を使っていた。しかし今回は意識を向けたから玄関に出た」というふうに言いたい人もいるかも知れませんが、僕はインターホンを鳴らしてくるのが営業さんでも大歓迎なのでそうしたことはありません。

「意識を向けると見えていなかったものが見える」というのは本当ですが、先の例はそうした客観的な領域を超えているはずです。

実は以前に道端ですれ違っていてとか、ある時、宗教勧誘の人は僕を玄関先にいるのを見たウェルカム状態なことを察知して狙いをつけていたが、そうした人と出会っていたことを僕が見逃していたとか、そうした客観的な物理領域で説明できないと納得しないというのが科学者です。まあそうした人たちは、科学に意識が向きすぎていて、まだ観えていないというだけです。

といっても僕は「あなた達が知らない真実」という胡散臭い宗教や占い師、スピリチュアリズムなどのようなものではありません。その人達の説くようなオカルティックな妄想の領域ではないのであしからず。

仮に分かっていてもそれを伝えることが良いとは限りませんし、それを生業にしようとか、それを利用して自分が誰かよりも偉くならなければならないなんてな執著を持つことこそが煩悩だと気づきましょう。

因縁を観る視点

まあ単純には因縁生起の領域ですが、因縁は意識で考えるような次元ではないということだけお伝えしておきます。

それは、例えるなら絵画があったとして、それを真上からみても額の上面が線のように長方形で見えるだけですが、しっかりと正面から見ればどのような絵が描かれているのかが観えるという感覚です。

「あなた達が知らない真実」なんてなことを言っている人たちは、実際に絵を見ているのではなくて、その絵にまつわる何かの解説書を読んで「おそらくそうだろう」と妄想しているのと同じようなものです。

そういうわけなので、科学者の人は、絵画を真上から、オカルトスピリチュアリズム系の人たちは、絵画を真横から見ているという感じです。だから、視点としてその中間を取ったとしても、額を斜めから見ているだけであり、結局少し面積の縮んだ長方形を見ていることには変わりないという感じです。上や横には絵が描かれた年月日や作者、タイトルが書かれていて、そこから妄想しているという感じで掴んでみて下さい。

しかしいくら因縁を横から見ているとしても、絵のサイズとかそれくらいは分かったりしますし、言語情報から多少の予測はできます。だから少しくらいは当たることもあるのです。

それではまた来年!


さよなら2017

さよなら2019

Category:miscellaneous notes 雑記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ