いたずらに感傷的になるのはよして

今日、僕は少し感傷的になりました。

それは、間接的に来る仕事の話において、医師たちの拝金主義的な意図を垣間見たからです。もちろん僕はその手の人に手を貸すことはありません。

しかし一方で、その手の拝金主義の医師たちに便乗する金融機関やコンサルタントなどもいることは事実であり、そうした人の様子を見ると少しばかり感傷的になったりもします。まあ広義の怒りにはなりますが悲しみがやってくるという感じです。

「ああ私よ、いたずらに感傷的になるのはよしなさい」と自らが自らを諭すような不思議です。

患者は経済社会の中の消費者・顧客ではない

医療や教育においては、可能な限り平等であるべきであり、とりわけ医療においては、いたずらに経済的な理論を持ち込んではいけないと思っています。

サービスを行き渡らせるとか成り立たせるための経済的合理性まではいいですが、とりわけ競争原理や行き過ぎた収益の最大化は入り込んではいけないと思っています。

資本主義の原則のひとつは、収益の最大化を目的とすることです。

すると、収益を最大化するにあたっては、顧客に常連になってもらうこともその一つとして考えられます。

それを最高に合理化すれば、顧客に依存してもらうことになってしまいます。

もしそうした顧客に依存してもらうことを医療で当てはめてしまうと「多少楽になってもらって来てよかった思ってもらいつつも、根治してもらっては困る」ということになりかねません。

しかし、患者は経済社会の中の消費者とイコールではありません。

患者を経済社会における顧客のように扱い、いかに自分が経済的に成功するかというようなことを考えているような人間や、それに肖り収益を上げようとする取り巻きなどは、その人格を疑ったほうがいいと思っています。

「我慢して無理やり」が生む歪み

そうした人が医療に携わるようになってしまう要因、特にそのレベルの人が医師として社会に出てしまう要因として考えられるひとつは、金融資本主義による教育の歪みではないでしょうか。

それは、地頭としては、その職につけるレベルにないような人も、高額な費用をかけて行う受験準備やそこで習う受験テクニックによって、合格してしまうというような点です。これは、どの業種にも当てはまります。

そして、我慢をして耐えた分、その我慢を社会に出てから取り返そうとする意識の働きや我慢の末に勝ち取ったという構造から起こるある種の傲り、目的が近視眼的な「自己実現」になってしまうという構造、教育投資に対する回収という投資的な目線が、そうした人間を作り出していると考えられます。

問題は、地頭の問題ではなく「我慢して無理やり」という点です。本人が勉強したという点はいいですが、そこに「我慢して無理やり」という部分が入り込むと厄介です。自尊心の欠落や性をはじめとした感情の抑圧が意識の中に潜んでいて、それが金融経済の世界観が組み合わさると、ロクなことにはなりません。

そうした医師がいることは、他のまともな医師にとっても迷惑でしょう。

医療法における病院等の広告規制

まあいたずらに感傷的になるのはよして、僕にできることといえば、「医療法における病院等の広告規制」についてお知らせするくらいでしょうか。

医療法における病院等の広告規制について(厚生労働省)

「なんかこいつ拝金主義臭くて怪しいな」と思った時は、リンク先下部の「相談窓口一覧」より「医療機関ネットパトロール相談室」や「医療広告相談窓口」なんかから通報してみてください。

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