ある種の侮蔑

何かを必要以上に保護することは、ある種の侮蔑を意味することになってしまうという構造を持っています。

「〇〇だから大目に見ろ」「〇〇だから仕方がない」というような論調は、その属性を持ちつつも為し得るべきことを成し遂げた人々を侮蔑することにもなります。

そしてそうした達成の可能性をハナから放棄することにもなりかねず、それは俗的表現をすれば自信を獲得することを他者が奪うということになるということでもあります。

まれに不良や犯罪者が更生すると普通のことをしているだけで評価され、普通の生活をしていた人がそのまま普通の生活をしていると評価されないというのはおかしいという論調があります(ここでは「何が普通か?」ということはとりあえず置いておきます)。

まあ犯罪者が更生することを良しとするというは、世の評価が相対的な評価であるということをも示していますが、普通の人が普通であることで評価されないのはおかしいという感想を持つ人としては、自分が評価をされていないことが苛立たしく、かつ、我が事しか見えず環境の差異というものを考慮できないという部分もあるのだと思います。

変化の差というものが評価対象となっているというだけでなく、スタートとしての環境を考慮すれば、それは一定の評価があっても良いだろうということを思います。少なくとも良い方向への変化なのであれば、それを評価する方が社会全体としても良いはずです。

資本主義、特に金融資本主義の中では、資産や所得においても最初から差が生まれています。資産面以外にも様々な要因がバラバラです。つまり、スタートが不揃いであり、一律に語ることはできない中、一律のスタートであるかのように考えると、「普通から普通」の方が評価されないというのは不平等であると考えるようになるということになります。

しかしながら逆に普通であることすら「環境を選べない」ということになりますし、裕福で整った環境の中で育つということに関しても、ある種選択権はありません。なので、恵まれていたということを一律に取り扱う必要もありません。

経済面から見えば恵まれていそうな人でも、自由がなかったり自立する機会を与えられなかったりして、自己評価が低いままになっている人も結構います。

スタートはどうあれ、何かしらを他人から奪うような状態から、一人で自分の分はまかなえるようになり、他人に与えられるような状態になれば、それはそれで良いのではないでしょうか。

ということで、「普通から普通」というまではいいですが、結局その裏に他人の評価を妬むという「何かしらを他人から奪うような状態」があると、それはそれで良いことではありませんし、そのような状態が評価されるということもないでしょう。

Category:笑う月

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