「人間性。」

われわれは動物を道徳的な存在とは考えない。しかし一体諸君は、動物はわれわれを道徳的な存在と考えると思われるか?― 話の出来る動物が言った。「人間性とは、すくなくともわれわれ動物が苦しむことのない偏見である。」  曙光 333

動物が道徳的でないとするならば、その従う指針のようなものがない、という意味ででしょう。以前に触れた我が家のインコの夫婦は、夫婦を解消した後も介護をしていました。インコ同士にも愛情はあります。

どうも動物と人間を対比した時に、人間の傲慢さが出てきますが、動物よりも害のある人間はたくさんいます。露骨に害を与えるような人だけでなく、動物に対して「人間の感情優先」という考え方をも持っている人たちもいます。つまり京都府ですね(京都府 「狩猟免許」の案内)。

馬を筆頭に特定の動物を経済動物と定義し、己の快楽のために利用した挙句、「生かしておくとお金がかかるから」という理由で殺す人たちもいます「経済動物 動物と道徳」。

彼らはギムキョなおかげで何も見えていません。

年寄りの老後の家庭菜園のためなら鹿や猪を殺してもいいどころか「代わりに殺してください」とアナウンスしています。

食糧難ならまだしも、京都府内の「家庭菜園」という趣味を持った人たちの趣味感情のために殺される鹿などが可哀想です。

どこかに動植物など命あるものに対して「所有」というような感覚を持っているのでしょう。

しかし、所有・処分権は人と人との関係、他人と自分との関係であって、その生命体と自分たちとの関係ではありません。

力が強いから何をやってもいいというわけではありません。

もちろん社会的な関係上でもよくありませんが、それは道徳的に、というわけではなく、力が強いからといって傲慢になると一生安らぐことがないからです。

人生で最初に本気でキレた瞬間

今では蚊も殺しません。払うことはしますが、決して殺したりしません。

嫌でも体は細菌などを殺しています。しかしそれは自分の体と細菌の関係であって、意識は関係ありません。つまり自分ではある種のコントロールができないものです。

そういうわけで、意図的に特に感情のために何かを殺したり苦しめたりすることはしません。

思い返すと、人生で一番最初に本気でキレた瞬間というものを今でも明確に覚えています。

小学校6年生の時です。修学旅行中のことでした。

それまでも、小学生なりの喧嘩のようなものはありましたが、それは些細な喧嘩です。覚えてもいないようなことばかりです。しかしその時のことは鮮明に記憶しています。

修学旅行で広島に行きました。

その時に当然に原爆ドームなどにも行ったのですが、水族館に行った時のことです(おそらく「みやじマリン 宮島水族館」でしょう)。

自分たちの小学校とは別の小学校も同じ日にその水族館に来ていました。

館内にペンギンがいるのですが、他の小学校の男が、ペンギンを傘でつついて、逃げまわるペンギンを笑っていました。

考えるより先に手が出ました。

それまで特に本気で人を殴ったことはありません。

すぐに先生に止められましたが、それでもまだ怒りは収まりませんでした。

同級生になだめられながらも、背中が熱くなったのを覚えています。

雨上がりの湿気ムンムンの中、体から湯気がたっていたような感覚でした。

それが人生で初めて本気でキレた瞬間です。

おそらく我が家にセキセイインコがいた関係もあるでしょう。初めてこの世にろくでもない人間がいることを目の当たりにし、初めて殺意というものを覚えました。

しかし、それは小学生だけではありません。

京都府による狩猟免許の案内も同じことです。

その時、先生には叱られませんでした。手が出たことは少し怒られましたが、「その気持ちを大切にしなさい」と言ってくれました。

その後両親に報告があったようですが、両親にはむしろ「そういうところを大切にしなさい」と言われました。

「人」の役に立てば何をしていいというわけではない

頭がいいとか、安定した収入があるとかいうのは二の次でオマケのようなものです。

もし京都府のようなことを仕事としてやらねばならないのなら、ストップをかける活動はさておき、退職して他の真っ当なことを仕事にすることです。

人の役に立てば何でもしていいというわけではありません。

人や社会や我が子のためにと正当化したり、プライドを守るために他の生命を迫害するようなことをするのならば、その人はほとんど悪魔だと思って結構です。いかに真っ当そうに見える人や職業であってもロクな人間ではありません。

何かの都合で退職できないとしましょう。

それはなぜですか?

その抵抗感はタダの見栄やプライドだったり、本能的な恐怖心でしょう。

勤め先に迷惑がかかるとしましょう。

その迷惑で誰かが死んだりはしませんが、仕事を続けることによって、何かの生き物は死んでしまいます。

迷惑など労力の問題です。

しかし対比される対象は相手の生命です。

娯楽的な快楽のために殺された命は返ってきません。

仕事を捨てなさい。

嫁に怒られるとしましょう。

嫁を捨てなさい。

親に退職を止められるとしましょう。

親を捨てなさい。

それができないのはなぜですか?

その恐怖心という悪魔に意識を乗っ取られている、ということです。

「それを続けなければ幸せではなくなる」という条件を勝手に決めているだけです。

しかし皮肉なことに、その条件のせいで永久に不幸なまま生涯を終えてしまうでしょう。

不殺生戒と人を殺してはいけない理由

「人間性。」  曙光 333

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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