意識の分野の解消法その2 なるべく関係を謝絶する

拒絶と謝絶というと少しのニュアンスの違いから大差があります。どちらも相手からの要求を拒むことですが、抵抗感のニュアンスが少し異なります。対象が物であれば、相手、つまり物から何か要求されているわけではありません。では誰に要求されているのか。

それはアイツこと自我です。相手は相手として独立して存在していようがいまいが、認識結果から意識の中で「相手」を作り上げて、要求をしてくるはたらきです。

様々な申し入れをしてきますが、ひとまずはそれを嫌がりながら拒否していくというよりも、丁寧に「お断りします」という姿勢で接してみましょう。

うつや煩悩の解消法、意識の分野の解消法として、「なるべく関係を謝絶する」という面からアプローチしていきましょう。

なるべく身軽に
なるべく多くの関係を謝絶する

「自分」というものを捉えるときには、 万物、すべての現象の中から、自分とそれ以外のものの区別をする必要が生じます。

男ですか?女ですか?

男です。

というようなことです。

すべての属性について区別が終わって差がわかった時に自分というものが把握できる仕組みになっています。

だからといって何でも定義されているカテゴリに当てはまるかというとそんなに単純ではありません。男女の性差くらいは変わることがありませんが、持っている意識というものはすぐに変わります。

それも二元論の中で単純に指し示す事のできるようなものではなく、仔細に分解定義付けはできるかもしれませんが、入り乱れ、複合的で、ひとつ一つを厳密に定義していくことはほとんど不可能でしょう。しかも、そんなことをしても何の実りもないというオチまでついています。

その自分だと思っている存在にはたくさんの「関係」、「関係する事柄」があります。

世間では、その関係する事柄が多いほうが良いかのような宣伝が吹聴されていますが、そんなことはありません。

相対的尺度

たとえば、スペックという言葉を使って、何かの能力的なことを高めることを良しとする風潮ですが、それは良いことでも悪いことでもありません。タダのひとつの属性なのですが、場合によって、換言すれば相対的な尺度によって良しとされ、また、悪いこととされます。

ではある能力が長けている、ということなので、自分の中ではそれは絶対的に解釈の必要なくいいものなのか、ということが頭に浮かびます。

その際も同様に相対的尺度で測ることにはなりますが、ひとつの毒性を帯びています。その毒性をしっかりみることなく、保有してしまうと、知らぬ間にそれが自分を蝕んでいきます。他人ではありません。自らを蝕んでいきます。

意識の中のお荷物

意識の中にはたくさんの事柄がめぐりめぐっています。ものを見てそれを認識するだけでも、それは意識の中のごみになります。ただ、認識しただけではゴミにはなりませんが、それが実在するものとして取り扱うと、ノイズとなります。

特に無属性のものより、記憶を思い出させるような、思い出を誘発させるようなものほど、そのノイズは大きくなります。それはニオイなどの感覚であっても同じです。

ぼーっと何もしていないように見えて頭の中にはたくさんのノイズが流れています。

重荷を背負う

今現在見えているものですらお荷物なのに、記憶の中の思い出はもっとお荷物です。まさに今見ているもの以外のものに意識が汚染されている状況、それが変性意識であり、今の現実以外の意識が、現在の意識と組み合わさている状態です。それはドグラマグラでさんざん出てくるキチガイの状態であり、そこからはなかなか抜け出せないどころか、自らはそれが普通だと思っているのだから、奇跡でも起こらない限り、そのままの状態でその意識から脱却などするはずがありません。

映画を観ていても、その映画の世界観の中に入っている状態、感情移入していたり、まさに起こっているかのような臨場感を感じているのなら、今見ているもの以外のものに意識が持って行かれているということのわかりやすい状態です。

まさに今見ているそのもの、それは目の前の光の差と音の振動くらいしか無いのが当然なのですから。

それがいけないわけではありませんが、それはキチガイの状態なのだ、ということです。つまり錯覚を現実かのように感じて実際に感情も起こり、反応も行動も起こしているのですから。それが普通で、それが現実なのだと思っていることです。

実際には、五感で認識したものも自分の中での世界であり、そこにさらに解釈を加え、ねじ曲げた世界が自分の中だけで起こっています。

そのねじ曲げには、こだわりと記憶が大きく関係しています。

そしてそれが、苦しみの一つの要素になります。

良いも悪いも全て

どのような良い思い出も、悪い思い出も、それが今現にある状態に影響を与えるなら、それは一種のノイズであり、手枷足枷になります。

良い思い出にとらわれて、現状を不服に思う、悪い思い出に首元を掴まれて、恐怖心で踏み出せなくなる、そのような具合です。

自我は汎用性の高い法則性を好みます。

なぜならば、根底が恐怖心、生存本能であり、何度でも使える使い勝手の良い判断基準がないと都合が悪いからです。

そこで情報と体験の記憶という材料を使って、意識的無意識的問わず判断基準を作っていきます。そしてそれが元で、予想に反したことが起こると感情をかき乱すようにできています。

思考の世界に感情を持ち込む、もしくは感情の世界に思考を持ち込むということもしてきます。

実際は理由になっているようで、なっていないこと、つまり関係ないことまで引っ張り出してきて、頭にはノイズを、心にはダメージを与えてきます。もしくは、非論理的な結論を導き出して、人を狂気に誘います。

「お兄ちゃんがかわいいから商品を買ってあげる」

と、営業マンの甘いマスクに翻弄されて必要もないものを買う人がいます。

しかしながら、人間が生きるために消費している分の最低限の消費としては、それほどの費用はかかりません。

つまり、ほとんど感情で買っています。感情を良い方向に持っていくために買っている、というのが実情でしょう。

そして、モノそのものが感情を良い方向に持って行ってくれる、というのがひとつの方向性として掲げられますが、「欲しい結果」は、「良い気分」であり、購買行動として良い気分になるのなら、ということで、間違いではありません。モノの使用価値としては割にあわないものでも、目的が気分の高揚なのですから、たしかに間違いではありません。

しかし、そういうものを買って、そのことを他の家族が知ると

「余計なものを買うな!」

と、怒るということはよくあることです。

当然です。モノそのものの使用価値はあまりないのに、「購買行動」という行動で気分の高揚を買ったのは買った人だけですから、ただモノを使うだけの他の人はそのような動機も、気分も味わっていません。

これが浪費癖のある人とその家族の辟易、という一例でもあり、事実以上に世界を見ているわかりやすい例です。

聴覚は周囲の危険を察知するためであり、味覚は毒の有無を判定するためだったり栄養価の高さを判定したりするためのものです。本来はそれくらいのもののための機能です。

それ以上に意味を与えてもいいですが、意味を与えることによって、良い記憶と悪い記憶を作り出して、それを根拠に意識がかき乱されること、それが苦しみです。

わざわざ「悪いと思っていたが、違うかもしれない」と飛び込む必要はありませんが、常にその場勝負でも十分だと思っておいたほうが賢明でしょう。

面接の前に40社落ちていたとしても、今日会う相手とは「はじめまして」なのですから。

成功した記憶も、失敗した記憶も、共に足枷になります。どうせなら、因果関係を具に分析することです。

しかしそれで法則性が見いだせても、それぞれ各々は全く同一の原因を持っているわけではありません。

リアルな人間関係を謝絶

自分に関係していると思っているもの、それが多いほうがいいとされますが、純化していったほうが良いでしょう。奥さんが100人いても、時間は限られていますから、それぞれが軽く浅い経験になってしまいます。それに1人だけと長い時間過ごさねば味わえない感情も経験もありますから、あちこちに意識を分散するともったいない、ということになります。

それは友人でも同じことです。友だちが100人と言っても1年は365日です。毎日誰かと会ったとしてもひとり一人との時間は確実に短くなります。

挨拶程度の知り合いを1000人作っても仕方ないのと同じです。一度名刺交換しているのに半年後に再会した時は「はじめまして」などという人もいますから、そのような人間関係を作っても時間と労力の無駄でしょう。

普段から現実以外のものに意識が汚染されているわけですから、どのような人といても、一緒にいる人に影響されない、という方が少しおかしいでしょう。

どれだけ「自分を持っている」という人でも必ずといってほど、一緒にいる人に影響されていきます。影響される部分はどの部分か、というのは一様ではありませんが、阿羅漢でもない限り、必ず影響されます。

ほとんど必ず影響される

相手が人であれ、情報であれ、ほとんど必ずと言っていいほど影響されるのだから、どうせなら優れたもの、優れた人と一緒にいよう、という事を思ったことがあります。

それが活字中毒になってしまった最たる原因であり、「優れた人」という人には、ほとんど巡りあうことがなかったので、「まだマシな人」と、あとは書物に頼ること、そして自らの限界思考や体感を頼りにすることにしました。

「自称優れた人」や周りが「すごい人だ」と盛り上がっている人というのはあまり大したことがありません。優れた人というより、都合のいい人であり、ある種のアイドル的陶酔の対象なだけで、優れているわけではありません。

盛り上がる人はB層であり、実際に鋭い目を持っている人は一割くらいしかいませんから、多数決で決められてしまっては、本質を見抜くことができません。多数決を採用している時点で偏見ですから、そういう基準は採用してはいけません。

それでも、たくさんの優れた人にいろいろなことを教わりました。人だけではありません。動植物にも、現象にもたくさんのことを教わりました。

邪念無く、群れることを欲すること無く、例えば営業マンや配達員におやつを渡すことの出来る感覚、それをもったたくさんのご婦人方に感銘をうけたものです。

女性の優しさ

数で言うと、おそらく女性よりも男性の方が優しい人が多いでしょう。女性には残念ですが、「優しかったお母さん」というセリフを卒園式などで読ませたりしますが、男性の方が優しかった記憶のほうが圧倒的多数です。気のキツイ女性は、嗚咽を催すほど優しさのかけらもありません。どちらかというと、「恥をかきたくない」という動機で優しいふりをしている人が多いでしょう。

しかしながら数では少ないものの、圧倒的な優しさを持っている人は、ほとんどが女性でした。

たとえ、安アパートで年金暮らしをしていても、今買ってきたばかりのみかんを差し出すことのできる感覚です。そういう男性にはほとんど会ったことがありません。

営業先でそういった方にたくさん会いました。息子の学歴を自慢するような人もいる一方、客人が来たならば、何か施しをしなくてはと、痴呆症にもかかわらずずっと茶菓子を探すおばあさんもいました。

チョコレートのシーズンになると、モテやお返しを期待してチョコレートの段取りをするという邪念に満ちた人もいますが、そういった邪念のない、本質的な垣根のないシェアという感覚、無償の施しという感覚は、一朝一夕でも長年の労苦を経ても辿り着くことは難しいでしょう。

しかしそれをさらっとやってしまう。

そこに「女性の優しさ」と美しさの本質、「大和撫子」という言葉に込められた意味を感じたものです。

難しい学術書を何冊読んでも得られなかった感覚は、偶然にもあちこちに落ちていました。

どうせ一緒にいるならそういう感覚を持った人と一緒にいるといいでしょう。そういう人と出会えないのなら、独りでいることです。

なぜなら、必ず意識は伝染するのですから。

いろんな物とバイバイ

人でも物でも情報でも、ほどんど必ず自分に影響を与えてきます。そこで優れたものを探しますが、なかなか見つかりません。

それならば、重荷になっているものを捨てていくことです。

自分が依存しているもの、自分に依存しているもの、それを捨てていくだけで、どんどん身は軽くなっていきます。

自分に付いている属性を1つずつ外していくことです。まずは町内会の役員から外れましょう。

たまに遠方に泊まりこみで数週間など、家から離れてみるとおもしろいかもしれません。

どこかに行っている間に部屋の物が半分くらい無くなっていても、驚きはするもののそれほど怒りのようなものや抵抗感は生まれません。

「捨てた」

と言われて、一瞬憤りを感じるかもしれませんが、それでもすぐにあきらめが付くでしょう。たとえば、捨てた代わりに、10万円入ってきたとしたら、おそらく「まあいいか」と思うでしょう。さあオークションに出品しましょう。いやしなくても構いません。

いきなり携帯電話の電話帳データがバックアップもなく全部消えたとしても、一瞬がっかりするものの、必要な連絡先はすぐに集まるものです。300件入っていたものが30件くらいになるかもしれません。

しかしそれくらいでも十分すぎるくらいです。

そのうち携帯電話すら要らないのではないか、と思えてくるかもしれません。

意識のノイズという意味では、モノやデータ以上に人間関係がノイズになります。

自分のことではないのに息子が心配だ、というようなことです。

だからこそ、父も母も妻も子も、何もかも捨てなさいと説かれるのでしょう。

本来は捨てたほうがいいでしょう。どうして捨てられないのでしょうか。

全て捨てればいいのです。自分の心の安穏には重荷になります。

自分は大丈夫なのに息子が大丈夫ではないと思って、自分の心がかき乱されるのなら、それは重荷以外の何物でもありません。

もし、実際に捨てることができないのなら、最低限理解することがあります。

自分の幸せと、相手の幸せには何の関係もないということを。

自我が作り上げた関係性

自分と相手、その関係性は自我が作り出しているものです。実体もなく意識の中で起こっていることです。

自分が依存するもの、自分に依存するもの、それはアイツこと自我が作り上げた関係性です。

自分の行動は相手の幸せに関わるんだ、というのは厚かましい話です。「これで相手は幸福だろう」、という認識をするのも自分、そうして満足するのも自分、結局自作自演です。

自分は相手を「自らの幸福感」の条件にし、相手の状況で一喜一憂する。自分を相手の「自らの幸福感」の条件にして、自分の状況で相手が一喜一憂する、互いに互いの意識の中で生きているようなことです。

そんな茶番からは脱却して、お互いを解放して自由になる、ということです。

それができたのなら、「実際に捨てる」という必要はなくなります。

こだわりともさようなら

こだわりをカッコいいと思っている人はたくさんいますが、そのこだわりがカッコよくない時代になった時でも、まだそれを採用するか自問自答した方がいいでしょう。

きっちりした仕事をする、というこだわりならいいですが、自分が飲むコーヒーはグアテマラ産だけだ、といったタイプのこだわりはやめておいたほうがいいでしょう。

別にヴィンテージを使わなくても、本当に音質の良いギターを使えばいいだけです。木材の関係で、ある程度古くないと良い音が鳴らないという傾向はありますが、古くて高いから良いというわけではありません。実際に鳴った音勝負です。

どんなこだわりであっても、自分を苦しめるものでしかありません。きっちりした仕事をするのはいいですが、「仕事をする」ということには疑いをかけなくなってしまいます。

主義や哲学は不要

世の中にはいろんな主義や思想があります。それぞれの主義が一体どんなものか、ということは定義していけるでしょう。世間では、「どの主義を採用してもよい」と、考え方の多様性を認めることが正しい、とされていますが、その多様性を認めるということは、誰がどういうふうに定めているのでしょうか。定めていたからといって、定まっているということは決めたことです。普遍的なものではなく、現在そうなっているというような事柄です。

残念ですが、世の中にはたくさんの意見や主義、思想、哲学というものがありますが、結局それはつかみ所のない仮定での仮説ばかりです。はっきりしているものは主義などとは言いません。あくまで「べき論」や「こうではないか論」であって、事実でもなんでもありません。雑談程度の暇つぶしにしか使えないでしょう。社会では他人への説得材料として使われますが、他人を媒介しない、その立場に立ちましょう。

もしその仮定、仮説が自分を苦しめる材料になるのならそんなものは捨てたほうがいいでしょう。

「世界を変える!」

と意気込むのはいいですが、変わった世界を認識するのは自分しかいません。五感からの入力信号が変わるか、意識の中での解釈が変わるくらいしかありません。

それならば、そんな遠回りなことをしなくても、自分の捉え方を変化させるほうが早いということはすぐに分かりそうなものですが、体育会系の延長で「自分を変える!」といっても、ガッツのある活き活きとした洗脳されたような人が出来上がるだけです。

ねじ曲がった認識と解釈、錯覚を取り外す

捉え方を変化させる、というよりもねじ曲がった認識と解釈、錯覚を取り外すということです。強く、折れない心を作るわけではありません。強く折れない心ならば、それは耐久性の問題になり、衝撃が強ければ折れてしまうかもしれません。

「強い心」ということではなく、そもそもそれが虚像だということに気づくことです。虚像なら折れようがありません。霧を折ろうと思っても折れません。

そうなると、結局相手がいかに強靭な相手でも、こちらは折れようがないのだから最強になってしまいます。相手は自分を苦しめることができなくなります。どんな攻撃を受けても「ダメージ0」です。

その強靭な相手とは誰か。

それは他人ではありません。

アイツです。

他人になにか言われたとして、それはただの音声であり、それを言語として「自分への攻撃」だと解釈するのはアイツです。

「それは都合悪いぞ!」

「さあ焦って反撃しろ!」

「反撃できないのなら、今のおまえが悪いな、何とかもっとスペック上げろよ」

と、命令してくるのはアイツです。

なぜそんな命令をするのでしょうか。

それはアイツの本性が、生存本能であり、恐怖心そのものなのですから。

意識の分野の解消法その3 断捨離的に関係を解いていく

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

「意識の分野の解消法その2 なるべく関係を謝絶する」への2件のフィードバック

  1. 自尊心と属性の関係性がわかった気がします。
    早い話が属性(帰属意識とも言うのか?)があるから自尊心が傷つく。
    そして属性を減らしていくことによって自尊心への被ダメージ範囲が小さくなる。
    ということですよね?

    1. 「こうあるべきだ」「こういう条件ならば安心する」という対象が少なければ少ないほど、心は安定します。
      一般的な「自分」という範囲を超えて「他人の状態」を条件化していくとそれが余計に苦しさの原因になります。
      そして、その相手との関係性は自分の意識の中で起こっていることなので自作自演です。

      なお、この投稿は、「自尊心」の概念自体が当然だと思いこんでいる状態の方向けに書きましたが、本来は、自尊心という概念すら虚像です。
      「自尊心を満たす」というような構造自体が、無駄な「条件」ですからね。

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