道徳的な流行

道徳的な全体判断は何と変化したことだろう! 曙光 131 序

毎度おなじみ道徳の時間です。

世の中には宗教という形を取らなくても、変化感じの思想とか道徳的教義をもって群れる集団があります。

まあこうしたものの大半は、来世主義だったり、「もうすぐ宇宙人がやってきて地球を支配するから、今のうちに宇宙人側につくんだ」というようなものであり、結局、自分よりすごい存在がいて、その存在に駄目な自分の人生をなんとかしてもらおうというような教義で溢れています。

以前、辞典を見ていたら、宇宙の例文で「宇宙人と交信できると信じている人たちがいる」というような皮肉めいた例文が掲載されていました。

それで「道徳」なのですが、一度今まで見聞きしてきたことを全てリセットして、本音で考え直してみると面白いと思います。

まずは体育会系の上下関係から考え直してみましょう。

一応定義上は、それが本人のためになるのなら「躾」や「教育」とされ、教える側だけの都合であれば「洗脳」ということになっています。

だから体育会系の社会の中で、体育会系の道徳を教えていくことは、一応、躾や教育に属するものであるという事になります。

だまれ!

そんな定義は関係ありません。

物事の正誤は相対的な尺度で判断されています。

確かに教育という定義、そして、正しいか否かの判断を演繹で考えれば、それは「正しい」ということになりますが、その前提となるもの、つまりここでいえば「体育会系が正しい」を保証しているものはないのです。

で、単純に言うと、その世界の中に入りたければそれに合わせればいいのですが、その世界を選択する必要はないということです。

極論を言うと、法律で決まっているから「できない」のではなく、できてしまうからこそ、その抑止力や事後の問題解決などのために法律があるという構造と同じです。

この場合も国家という図体のでかい存在があるからこそ、「いざって時に勝てないよ」という力関係によって、何とかそういう意識が蔓延しているだけで、絶対的に確定しているものでは無いはずです。

ただ、こうした国家の場合と同じように、選択に関して有無を言わさずにそのエリアにいるだけで、勝手に適用されてしまうというシーンで問題となります。

わかりやすく言えば、義務教育でしょう。

ただ、義務教育であっても、教育を受ける権利の行使を妨げてはいけないという大人側の義務であって、小中学生には義務はありません。

こうした時に、「白い靴下しか履いてはいけない」という取り決め、そして、それに従うことが道徳教育だという構造が問題を引き起こします。

こうして、「管理者側の言うことを聞く」ということが絶対的な道徳として、「教育」と言う名の「洗脳」として行われていきます。

さて、本題の道徳的な流行に戻りましょう。

新興宗教の布教ビデオなんかにありがちですが、

「本当の自分らしく輝いていいんだ」という事に気づいた、みたいな感じで、信者が目を輝かせているインタビュー場面などがあります。

根本問題から話すと、「ダメだと思ってたの?」というところから問題が始まります。

これって、結局は先ほどの道徳的な洗脳によって、「我慢する」とか「みんなとの和を考えて妥協する」とか、そうしたミスター脳筋こと孔子などの影響を受けて為政者の都合の良いように仕向けられた洗脳の一部が解けただけ、ということにしか過ぎません。

で、本人が喜んでいる事自体はいいのですが、その喜びの感情と自分の教祖、そして道徳的な教義を関連付けてしまうところに問題があります。

「この教えを知ったからだ」

という感じで、神格化していくところに新たなる洗脳が見え隠れします。

かなり前にも書きましたが、幼稚園児が言っても、ノーベル賞学者が言っても、その言葉の持つ価値は同じです。

誰が言ったかによって、属性が変わってしまうのはおかしいはずです。

そして、その新興宗教の教義自体は「芸能人の名言集」みたいな投稿で広告収入を稼ごうとするアフィリエイターと同じように、タダの引用である可能性が大いにあります。

で、内容自体は誰が言ってもその価値に変わりがないので、それでいいのですが、そんな言葉を吐き出した人や団体そのものを神格化していくことが相当危険です。

そんなことは、「ブックオフで100円で手に入るレベルだ」、「広告収入目的のアフィリエイターでも言っている」という感じで、言葉の意味だけを感じるに留めるのが良いでしょう。

道徳的な流行 曙光 131


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