親切な記憶

高位の人は、親切な記憶を仕入れるのがよい。すなわち、ひとりひとりについて、一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにすることである。それによって彼らを快く依存させることになる。人間は、自分自身に対しても同じような取り扱いができる。 曙光 278 前半

「一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにする」

この手法はいたるところで使われ、近年では胡散臭い本でよく説かれています。しかし胡散臭いといえども、苦しさが紛れるのなら自分を騙してもいいのではないか、という事になります。

それはその通りです。鎮痛剤的に使うのならば、使っても構いません。しかし鎮痛剤に依存してはいけないように、何かに依存してはいけません。

一時的に苦しみを取り除いて、気力体力が戻った時に根治に向かうのがいいでしょう。

一つのジレンマ

しかしながら、これには一つのジレンマが生じます。

それは、本気でダマされないと、苦しさも紛れず、鎮痛剤的な効果が期待できないことです。

意識の向かう先を、よい思い出やよい想像で埋め尽くしていれば、確かに健康になっていきますが、トラウマのようなことが消えたわけではありません。

解釈を変えようとしても、奥底では抵抗感が消えていません。これは嫌いな人を好きになろうとしているようなことです。

嫌いなままで構わない

嫌いな人は嫌いで構いません。嫌いなのだから、好きになる必要はありません。

嫌いな人がいると、嫌いな人を何とかやっつけてやろうという気が起こりますが、その「やっつけてやろう」という気持ちのほうが、嫌いな人の存在よりも問題です。

嫌いな人が幸せでいることも、苦しんでいることも、いずれにしても自分には関係ありません。それならばいっそ慈悲の念を送ることくらいはできるでしょう。

そして、嫌いなものは嫌いと認めることで好きなものが見えてきます(嫌いなものは嫌いと認めることで好きなものが見えてくる)。

慈悲の念を送る

僕は誰に何と言われようと、忌野清志郎が嫌いです。

しかし、忌野清志郎に慈悲の念を送ることは出来ます。

セブンイレブンで彼の声を聞いた後に、彼の顔が離れない時は、よく帰ってからモンキーズの方を聴いて、デイドリーム・ビリーバーを上書きしていました。そして聴きながら、彼に慈悲の念を送っていました。

ただただ自分も忌野清志郎も、あって無いようなものです。

親切な記憶 曙光 278


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