良心的な人々の悪用

つい先日喫茶店に行った時のことです。何やら思想団体のような団体が、デモ行進について会議をしていました。といっても若い人たちです。京都といえば昔からその気が多いのですが、やはり例に漏れず群れたいだけのB層でした。

「デモ行進中の差し入れに感動した」ということを女性が語っていました。しかしながら、自分たちの代弁者である思想団体に差し入れをするくらいたやすいことです。

行動と思想の内容

「差し入れ」という善意・良心的な誰かの行動による感情と思考の産物である思想を関連させていますが、思想の内容と群れることと、差し入れは一切関係がありません。

ついでに言うと、差し入れをしてきた人の良心的行動と、自分たちの支持者達は良心的行動を取るようないい人たちだ、という関連思考をしています。しかしながら、そのような行動の動機たる良心的なものと、妄信的になっている思想は別物です。

自惚れのような自己肯定

「こんな良心的な人たちが自分たちを支えてくれている」

という自惚れのような自己肯定です。

というようなことを思いました。

したければすればいいですが、実際に何かを変えたければもっと実務的なやり方をしなければなりません。そのやり方では宙に舞って終わりです。まあおそらくそんなことはしないでしょう。

関わりたくない人間

同じ日に、夕食を摂っている時です。

せっかく運ばれてきた料理には目もくれず、雑誌を見ながら「来週はどこに食べに行くか」の会議をしている女性たちがいました。

そういった人たちとは関わりたくもなく、また、関わる必要もありません。

代理人的な方たちとの付き合い

しかしながら経済社会ではそういった人たちに支持されないと、お金は集まりにくいということになっています。

そういうわけで、やはり「そういう人たち」と何とか関わってくれる自分の代理人的な方たちとの付き合いだけで十分かなぁと思っています。

もちろん本当の代理人というわけではないのですが、そういった中継地点的な役を引き受けてくれる人たちのおかげで、あまりかかわらずに済んでいます。

まだまだ経済社会の中にいますが、今のところそれがまだ気楽かなぁと思います。

良心的な人々の悪用 曙光 53


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ