自己弁護する

多くの人間はしかじかの行為をする最上の権利を持つ。だが彼らがそのために自己弁護すると、われわれはもはやそれを信じない。― そして見当違いをする。 曙光 399

抽象的な体感を感じている時、それを具体化してしまうと体感が壊れてしまいます。

もっと一般的に言うと、「今幸せだなぁ」と感じている時に、理由として「○○だから」とラベリングしていくことで、それが壊れてしまうという感じです。

「再現可能で汎用的な法則性」を意識した時点で壊れるのです。

普段とは違った体感がやってきた時、「これをまた体感したいなぁ」と考えます。そこで、それを具体化していけばいくほど、その体感の理論づけを行えば行うほど、体感も再現可能性も壊れていきます。

先日「叶うはよし、叶いたがるは悪しし」なんてなことを書きましたが、まさにそのような感じです。

「なる」なら「なればいい」

「なる」なら「なればいい」のです。

「なる」のに「なりたがる」から「なることができない」のです。

で、なるにあたって、最上の状態は、全ての煩いがない状態です。

でも普通「なる」というと、「サッカー選手になる」とか、そうした「具体的なもの」になろうとします。

そして仮に具体的なところで言ったとしても、サッカー選手はサッカー選手になろうとしているでしょうか?なろうとはしていません。だからサッカー選手なのです。

練習というものは必要なのかもしれませんが、おそらく努力して練習をしようとは思っていないはずです。

「意識と身体が勝手に動いてしまう」

という感じでしょう。

「努力して踏ん張るぞ」と、感情に蓋をしても、それは一時しのぎにしかならず、結果続きません。

「なろうと思ったら努力しろ!」

というのは根本から間違いなのです。

だいたいそういうことを言う人は大成していない人です。微妙なポジションにいる人ばかりでしょう。

弓と禅

そういう感じは、オイゲン・ヘリゲル氏の「弓と禅」がすごくわかりやすいと思います。

「それが射るのです」がストンと落ちれば、もう語ることはありません。

なかなかいい本ですよ。

自己弁護する 曙光 399


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