戦場で

「われわれは物を、それが値する以上におもしろく考えなければならない。ことにわれわれは長いことそれを、それが値する以上にまじめに考えてきたのだから。」― 認識の勇敢な兵士たちはこう語る。 曙光 567

真面目なことはいいのですが、歴代の偉人とされるような人々をよくよく観察すると、本質に対して真面目であるだけで、社会的には不良だった人が数多くいます。

イエスに関しても、真面目という意味では当時主流だったファリサイ派に対しては異端ですし、先ほどのマルティン・ルターに関してもローマ・カトリック教会からすれば不良です。

シッダルタも当時のバラモン思想の中では完全に不良です。シャカ族の王子としても完全に不良です。

ただそれぞれの人たちは、本質に対して人よりも真面目だったというだけです。

実を言うと学者になるべくという感じで大学院への推薦入学という話もありましたが、すぐに断りました。

それは僕も彼らと同じように真面目であり、不良だったからです。

食い扶持と思索を混同してしまうと、何もかもが歪んでいくような気がしました。

僕がやりたかったこと、それはある分野での学問的権威になることでもなんでもなくて、ただどこにあるのかはわからないような、それが何かすらわからないような答えを悟り、この心を安穏に導くことだけでした。

「ただ普通に生きたい」

そう思うフシもありましたが、すぐに「煩いしか無い人生を、なぜ執着して生きるのだ?」という問いが頭をかすめました。

「安定した職業に就いて、マイホームを買って…」

というようなよくあるストーリー自体には全く関心がありませんでした。

それを実現するにはどうすればいいのかの方法論はすぐに浮かびますし、それを叶えたところで、その叶えたあとにある虚無感にも気付いていました。

そうして何不自由無いような生活を送る事自体への疑問です。

それを叶えたところで、18歳、19歳の時に感じた胸のつかえや様々な恐怖、それを一時的に忘れることができても、いずれまたその内側に飲み込まれる可能性に関しての根本解決にはならない、そんなことを思っていました。

あえて逆らう必要はない

もちろん僕としても教育者、指導者というような人たちに対してあえて逆らってきたわけではありません。

そういうわけで、意味のわからないことについて、質問をしてきただけです。

そして逆らうということはある意味相手の権威を認めているようなことにもなりかねません。

本質を追求するということと相手に認めさせるということは、まったくもって別物ですから、人と議論をする必要もないのです。

抵抗感を持って苛立つ必要はどこにもありません。

真面目にやっても大成しない

世の中の不良というものをよくよく考えてみた場合、真面目にやっていない分、本質を捉える能力に長けている場合がよくあります。

あれこれ課題を真面目にこなしても、いいところ少しは給料の高い雇われで終わる可能性が高いですが、「真面目にこなしてもあまり意味がない」という点や、「それは本質とはあまり関係がない」という面をよくよく知っている分、不良とされる人たちのほうが大成しやすかったりします。

商いをシンプルに考えれば、人が欲しいと思うものを安く買って高く売るというようなことです。広告なんかはそれに付随したサブ要素であり、本質的に考えれば需要があるものを、なるべくお金をかけずに高く売る、たったそれだけだったりします。

しかしながら学校で教えられるような経営学は、本当の商いからはかなり外れた内容になっています。

正しい商い

そう考えると、今でもあるのかはわかりませんが、競馬場の近くで予想屋みたいなことをやっている人の方が、ある種正しい商いです。

人の需要を見極めて、お金をかけずにそうした需要を持つ人達が集まる場所を見極めて接点を作っています。さらに原価のかからないようなサービスを提供しているのだから、かなり本質をついています。

そのサービスがカッコイイかカッコ悪いかというのは別として、本当に社会に貢献しているのかしていないのかは別として、商いの本質だけは捉えています。

戦場で 曙光 567


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