怒りの中には期待があり、期待が無くなれば嫌な感情は消えていく

全てのタイプの怒りではありませんが、人に対する怒りについては、その中に相手に対する何かの期待があり、「変わって欲しい」というような願いが込められている場合があります。

そしてその期待が無くなれば、怒りを発端とする嫌な感情は消えていきます。

あくまで怒りや嫌な感情が「消えていく」のであって、瞬間的な怒りを経験しなくなるわけではないのかもしれません。

といっても、自分が認識している今は瞬間的に変わっていくので、それでも全く問題がない、という感じになります。

属性は違えど期待がある

期待というと、相手が性格も含めて考え方を変えてくれるだろうというようなものを想像しますが、これはそうしたものに限定されるわけではなく、属性は違っても様々な形での期待を無意識的に保持しているという感じです。

最もわかりやすいのは、「自分の話を理解はしてくれる」ということです。

相手が自分の話の内容について同意はしなくても理解はしてくれるということを無意識に思っています。

同じ日本語を使うのだから伝わるだろうと。

罵声を浴びせるか、諭すような感じで言うかは別問題として、お店にクレームを言う人も同じような感じです。

「少なからず意見は採用されなくとも、そうした意見自体は相手に伝わるだろう」

そんなことを思っているはずです。

だからこそ電話応対なんかの研修などでは「相手の話をオウム返しにしろ」というものが実施されているのでしょう。

まあ「わかるよーは魔法の言葉」みたいなものです。

しかしながら、そんな期待とは裏腹に全く話が通じないという瞬間もあるのです。

期待をしなくなる時

日本人で日本に住んでいて、お店に行って何か不快な思いをした場合、怒りが生じることがあります。

でも、その人が例えば中央アフリカのある都市で、日本語はおろか英語すら通じないとすれば、同じような事象が起こったとしても、落胆はあるものの怒りはしないことが想像できます。

海外なので、言葉でどうクレームを表現すればいいのか分からないというものもあり、また文化の違い的な諦め、そして相手がどう出るかわからないという恐さなどもあります。

木鶏のごとく 走っていて狸が出てきた場合

木鶏の例え(静かなること木鶏の如し「無理なもんは無理 改」)や無人ボートが当たってきたという場合を想定してみても、怒りの矛先がないと、怒りが生じないことがあります。それは相手がいないからです。

と言っても無人ボートならボート管理者に怒りを覚えるでしょう。

ということで、車で走っていて飛び出してきたタヌキくらいを想定してみましょう。

自分が車で走っていて、人が飛び出してきた場合を考えてみた時、ボールを追いかけていた子供に対する場合と、20歳位の若者がふざけて「ドライバーを焦らせるゲーム」をしていた場合、そして狸が出てきた場合では、感情がそれぞれ異なるはずです。

「相手に話が伝わるかどうか」

そうした面がかなり大きな比重で怒りや嫌な感情に影響を与えているはずです。

そういうわけで、

「この人には話が通じない」

と気付けば、それほど怒りもやって来ません。

期待が無くなれば嫌な感情は消えていく

相手に対しての「悪いなぁ」という気持ちや「怒り」は、少なからず相手への期待があります。

「仲良くできると思ったのになぁ」

とか

「せめて話は通じるだろう」

そんな期待が何処かにあります。

話は通じたとしても相手が想像していたような人ではなかった、という場合もあります。

そうした場合は怒りか残念さがやってきます。

その奥にはどこかしら「相手にも幸せになって欲しい」という期待があります。

でも通じない人には通じません。

相手を心底コントロールすることなどできませんし、する必要もありません。

でも少なからず、相手への怒りが生じるということは、相手への期待があります。

「期待をするな」

ということではないのですが、執着するようなことではないという感じです。

相手に変わってもらう必要はないのです。

ただ、そんなことで自分の感情が不快になるのなら、視線を変えていけばいいだけ。

「やっぱりあなたにも幸せでいて欲しい」と、相手に期待するということは、一応何処かに博愛主義のようなものを持っているはずです。

しかし、それは少し歪んだ博愛主義です。

思想団体のデモと同じような構造になっています。

社会が良い方向にいって欲しいというものは一見素晴らしいですが、それを理由に今現在苦しむ必要はないのです。

今現在苦しむと、後でいいことがあるというのはカルマの法則や厭世主義、来世主義が大好きなカルト教団です。

「これは一過性の現象にしか過ぎない」

そう気付くだけで十分です。

「他人のことなど知ったことではありません」くらいの感覚で行きましょう。

牛丼屋の例え

かなり古い話で、これは僕の友人が実際に体験したことですが、彼は牛丼屋でアルバイトをしていました。深夜時間帯です。

深夜の牛丼屋に浮浪者のような人がお客としてやってきたそうです。

そこで、牛丼を注文し、

全て食べ終わった後、

無言で立ち去ろうとしました。

「すいません。お会計お願いします」

と友人が言うと

「こんなまずいもんにな、金払えるわけ無いやろ」

とその浮浪者然とした人は返すのでした。

友人は直ぐに警察を呼びました。

そして事件は一件落着です。

彼には「期待故の説得」という選択肢が無かったのです。

そして同時に、怒りによる嫌な感情というものもまた、全く無かったのです。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ