啓蒙主義に対するドイツ人の敵意

過去のものの完全な、また最も究極的な認識という外見のもとに、認識を一般に感情の下に押さえつけること、そして― 自分自身の課題をそのように規定したカントの言葉を借りていうと― 「知識にその限界を示すことによって、信仰に再び道をひらいた」ことは、決して少なからぬ一般的な危険であった、ということである。われわれは再び戸外の大気を呼吸しよう。この危険の時は過ぎ去った! 曙光 197 中腹

信仰やその道の代理人的な人の権威よりも理性を大事にして、ひとまず伝統を脇に置きながら徹底して頭を使って考えてみようとしつつも、結局行き詰まって再び信仰に戻るという感覚は、理系の唯物論者的な人がカルトにハマる構造に似ています。

およそ人に納得されるレベルで客観的な世界が何なのかを捉えようとすればするほど、どんどん説明が使いないことに気付き、その先に人知を超えた理に畏怖を感じ、いわば完全の象徴である「神」のようなものに身を委ねることになっていきます。

しかしながらそうした完全の象徴である神の定義はかなり曖昧です。一般的には人格神的に扱われますが、ただ普遍の理を指す場合もあります。

「私」が「不在」になる

そして一方で信仰のようなものには一定の効果のようなものが垣間見れます。これは神に祈る時、そこには「我が主体である」ということから離れ、この世界に「身を任せる」というような、ある種の自我からの脱却があり、自我による制限が無くなることに起因しています。

端的には「思いが切れる」というようなイメージです。

「私が優勝した」という場合でも、確かに客観的な社会の中の他の誰でもない「私」ではありますが、「私」を形成したものに「私のオリジナル」というものはどこにもありません。

ただ、ある方向性・可能性が「私」に収束して、単にその結果が生じているにすぎないのです。

そう考えると「私がやりました」というのは少し変です。

確かに社会の中での個々人の中の誰がやったかという意味では、その「私」ですが、その私自体が本当は「私不在」であるからです。

だからこそ、「神に委ねる」という状態の中では、神がすべてを導いたという状態になるので、「私」という主体的なものが自発的に行ったという一種の自惚れや自画自賛は起こりません。

自我の領域に引き戻されていく危険性

そういう意味では、神の存在の有無にかかわらず、自我の領域からは一応脱しています。

しかしながら、「神に委ねることが成功しているかどうか?」という懐疑があれば、それはそれで自我の領域です。

「私」が「神」というものに対して、「身を委ねられているか?」という疑いは、「私」主体で「神」をコントロールしようとしている状態だからです。

そして、誰が神に近いかや、神のことをよく知っているか、というようなもので、「私」が主体となり、ヒエラルキーを作ったり、自惚れを形成していくことにもなりかねません。

そうなると元の木阿弥です。

ある種「神の名のもとに平等」であるならば、完全ではないもののそこには分離や比較がありません。比較がないゆえに権威もありません。

ただ、神の名のもとに平等である、それだけです。

しかしながら、「神の代理人である。だから私の方が一般市民よりも偉い」と思うのであれば、根本から先の命題を否定していることになります。

だから神を基準とした形而上学的解釈や認識論は、最終的には自我によって自我の領域に引き戻されていく危険性を孕んでいるのです。

啓蒙主義に対するドイツ人の敵意 曙光 197


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