危機に瀕した者の慰め

どれだけのことが起こっても、慰めというものは必要ありません。起こった現象はすぐに消えすでに記憶になっています。記憶によって自爆しているのだから、何か他のもので埋めようとする必要はありません。

急激な危機に瀕する時は必死で目の前に対応しているだけで勝手に終わります。終わらなくても何かの結果を残して終わります。終わらなくても死んで終わりです。結局終わります。

それよりももっと問題視されるのはジワジワした危機です。

弱者の絆

派遣村というものがありましたが、「群れて慰めあっている前に、あなたたちは何かやりましたか?」というような疑問が残ります。こういう時に慰めに向かうとき、その方向性は宗教的なものか何かすごいような存在にすがるか、弱者同志で群れ合って強者を非難することぐらいです。

空回りの正当論をただ唱えるくらいしかありません。

確かに労働環境が悪かったのかもしれませんが、それならばすぐに辞めればよかっただけのこと。殿堂入りするブラック企業のように、犯罪を強要されたり、長時間の無償労働を強いられたわけではないのに、グチグチ会社の悪口を言っても仕方ありません。

それならば自分が最高と思う会社を作りなさい。グチグチ言って何かの結論が出たところでたいてい何も変わりません。弱者同志の絆が出来るだけです。

グチグチ言いながらもすがることしか出来なかったあなた達が、変にそういう労働力になったおかげで、そういうシステムが運用できていたわけです。「嫌なら辞める」それすらも出来なかったのに「切られた」と嘆くことしかできません。不服があるなら訴訟でも起こせばいいでしょう。そんなことができるような人なら、そんな生き方はしていないのかもしれません。

サンプルモデルや教えてくれる人の存在

ただ、面白いことは、このような時にサンプルモデルというか、教えてくれる人が存在しなかったということがあります。自分たちの親世代の時にはそんなシステムはミナミの帝王のドヤ街くらいなものでしょう。

「やりたいことがある」という自己説得をいつまでも続けて生ぬるい生活を続けた結果です。本当にやりたいのなら、一年間は死ぬほど稼いで、次の一年間で他では働かずにスパートをかける、という手法もあります。それも案としては浮かびそうなものですが、たいてい本当の理由は何かの理由をつけて「責任のある仕事」を避けて、無責任、つまりはいつまでも青春を謳歌したいということですから、そのような思考は浮かんでも却下されます。

もしくは飛び級で偉い存在になって「誰にも頭を下げたくない」というものかもしれません。ところがどこでどんなことをしても、頭を下げる局面はやってきます。総理大臣でも頭を下げて礼をしたりしているのだから、役職的な意味合いでの「最高に偉い人」というのは王国を作って王になるくらいしかないのかもしれません。非現実的です。

あまり人と接しないと、敵視してしまいがちですが、人と触れていくとある程度その「無駄に敵視してしまう傾向」は消えていきます。嫌なやつがいても、それ以上にいい人がたくさんいることに気づきます。挨拶程度でもそれを繰り返せば、そういう疑惑は解除されていきます。

慰めなど必要ありません。変な妄想を避けて、触れていけば勝手に気づいていきます。

危機に瀕した者の慰め 曙光 154


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