倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動

ニーチェはまさに曙光のこの項目で、核心に迫るようなことを言っています。

「必然的な作用を把握する」、つまりあるがままの因果関係だけ把握できれば、アイツの特性である、空想的な因果関係が破壊されるということについて触れています。

空想的な因果関係を観察する

「空想的な因果関係」とは先に触れたような風習によってもたらされる倫理的規定からもたらされる妄想であり、アイツの得意とする「関連思考」に無意識的な信念まで組み込まれてしまっているような状態です。

つまり、迷信のようなことです。現象は、ただそれだけの現象であるにもかかわらず、アイツはその関連思考という機能によってさまざまな意味づけをしていきます。

その際に、宗教的、風習的な要素が信念として深い所に根付いていて、勝手に影響してしまうので、結果である感情も歪んだものになってしまうというようなことになります。

ただの確認で十分

ニーチェとしては、「それを解除していくには検査をしていけば確実です」というようなことを言っていますが、ただの確認で十分です。

たまにブッダが言っていた、というような権威を持っての説得を行う人がいますが、それが無効になるには簡単な事実をその場で確認すればいいだけです。

実際にかつて生きていて、本当にそのようなことを言っていたとかいうような属性は、説得に関係ない、というようなことです。

ブッダを神格化し、その正当性の根拠とするのはかなり次元の低いお話です。本当に存在していた、とか、本当にその言葉を発した、というのはそれを検証して事実かどうか確認してもしなくても、今この場で起こっている現象には「関係」ありません

風習、倫理、宗教的な前提を「妄想」している状態で、アイツが反応するだけであって、実際は一切関係がありません。確実なのは今、感じている、受け取っていることで「全て」だということです。

倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動 曙光 10


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