「今」に集中することと今をスタートとすること

「今」に集中することと今をスタートとすること、ということで以前にサイト内検索で大人気だった「今  集中」というようなことについて、哲学カテゴリとして少しだけ書いていこうと思います。

「今ここに集中する」みたいな感じで、欧米でも流行っているようですが、あの手のものは所詮と言っては何ですが、「フィットネス代わり」に瞑想を取り入れているという感じで、カルチャースクールのヨガ教室程度のレベルの話に終わっていると思います。

あの手の話における「今。ここに集中する」は、ストレス軽減や集中力アップ、思考の抽象度を上げる、心理的盲点を外す等々の「効果」を期待して、現実的で社会的な活動をよりよく行おうという程度のものだと思っています。

まずはそんな現世利益的でラジオ体操の効能くらいにしか考えていない人や、ヨガにハマった人がよく勘違いする面について書いた後、「それだけじゃもったいないですよ」という感じで、その先にあるモノについて書いていこうと思います。

それではまず、「今現在に集中する」、「今ここに集中する」とよく言われるような状態についてから始めていこうと思います。

今現在に集中する

今までも何度か書いていますが、「今現在に集中する」という場合、もちろん義務教育でありがちな「テスト期間中はテストのことだけを考えろ」的なある程度幅を持った意識の集中ではなくて、一秒前でも一秒後でもない、今現在に意識を集中するという感じです。

で、こうしたものは止観における「止」の方であり、いわゆるサマタ瞑想になります。

ある一つのもの、西洋で言えば「ロウソクを見つめる」というような一点集中を行うと、頭がスッキリしてきます。

特に眼球の動きを止めるように瞼を閉じつつ、瞼の上を見るようにして眼球を止めればなおさらです。

そしてサマタ瞑想においては、結跏趺坐や半跏坐等々、姿勢が大事だと言われますが、その方が体からの変な信号が邪魔をしてこないというだけで、究極的にはどんな姿勢でも行うことができます。

単純に今に意識を集中するだけ

やり方自体は簡単で、単純に今に意識を集中するだけです。最初はブレますが、どんどん今現在に意識が集中していきます。目を開けたままでも大丈夫ですが、慣れないうちは目を閉じて静かなところで行う方がいいでしょう。

今に集中しきれていないときは、雑念が湧いてきます。それでも、そのことによって無意識を観察することができますのでついでに観察してみましょう。そして今に意識をシフトしていくと、当然に過去や未来のことには意識が向かなくなるはずです。

どこかしら「あと1時間で風呂に入ろう」とかそういったことが思い浮かぶならまだまだ集中力は足りません。今、今、今という感じで、最初は今という文字の概念を使っても良いですが、「い」と「ま」の間にもちろん時間の概念がありますので、どんどん観念だけにしていってみてください。

そして、「今が流れた」「『今』が流れた」という感じで観察しつつ、秒単位、コンマ単位で今への集中ができるようになってきたら、「ふっ」と今の自分の体感が変な感じなってくるはずです。

「姿勢」や「呼吸の安定」

こうした瞑想のようなものを行うときの「姿勢」や「呼吸の安定」に対する注意は、どちらかというと、体からの信号で今への意識の集中にノイズが入りやすくなるから、といった感じで思っておきましょう。

ということで、「今に対する意識の集中力がまだまだだなぁ」と思いつつ、体からの反応が気になる場合は、必須ではありませんが、事前にストレッチなどを行うなどして、体のこりや張りのストレスを軽減しておきましょう。

いわば、「まだまだ今に集中しきれない」という初期段階にはそうしておくのも一つの手だという感じです。が、必須ではありません。

雑念や体感が無くなっていく

そして、集中力が上がれば、そのうち雑念や体感が無くなっていきます。

しかしながら、雑念がない分、変な光を見たり、普段とは違った声がしたりします。

それを「神からの啓示だ」とか「真我を見た」とかそんなことを言い出す人がいます。インドにハマった人やヨガスクールからカルトに化けていくような集団にありがちです。

しかしながらそれは集中力が低い証拠です。

なぜなら、今に焦点が合えば合うほど、「私」は消えていくからです。

以前どこかで書きましたが、「無念無想の中で真我を発見した」という人は、自分が矛盾したことを言っていることに気付いているでしょうか?

無念無想であるならば、何も感じないはずです。

「無念無想の中で真我を発見した」とか「何も感じないような状態」などなど、これを悟りだと勘違いする人多しですので困りものです。

そして、いかに集中力が上がり、上下左右の感覚もなく、時間の概念すらも無い状態になったところで、それは非想非非想処を経験したことにしかなりません。

あえて言っておくと、それは悟りでも涅槃でも何でもありません。

非想非非想処

非想非非想って変な感じがすると思いますが、単純には、非想は何も認識しない状態です。でも「何も認識しない」ということをこの心は認識しています。

で、非非想は、そんな「何も認識しない」ということを認識している心すら無い、という感じです。

そういうわけで、非想非非想処という状態は、まさに何もないという感じになります。今に集中するというサマタ瞑想の最高地点です。

しかしながら、非想非非想処は悟りでも涅槃でもありません。

ただ非想非非想処であるだけです。

非想非非想処の状態にある間はいいですが、その集中を解いた瞬間にまた元に戻りますからね。ということは、非想非非想処自体がある種の「条件」となり、「ずっと安穏の中にいる」ということとはイコールにはなりません。

でも、それくらいの集中力を持てたのなら、「今に集中する」という分野ではもうそれ以上はありません。

伝承的には、シッダルタはある人に弟子入りし、すぐに非想非非想処を習得し、「片腕となり、跡継ぎになってくれ」と師匠に言われましたが、「この程度か、根本解決にはならない」といって、師匠の元を去ったとされています。

マインドフルネス(笑)

どうでしょう?マインドフルネス(笑)とか言っている方々。

お肌をキレイにするために、仕事の能率を上げるために、というレベルなら、このレベルの集中力は必要ありません。

単に今に集中するということをしておいて、少し科学チックに言えば、脳波を低周波にしていくだけで十分ですからね。基本的に目を閉じるだけでも脳波は低周波に向かいます。そうして脳波がアルファ波やシータ波になると、いわば無意識の方がよく働くようになります(起きているときはベータ波です)。

で、マインドフルネス瞑想だ、という場合のフィットネス的効用は、表面的でノロマな思考を脇において、無意識に働いてもらう、という程度の効能です。脳波が低周波になるのでリラックスして緊張が解けて体調も良くなるという程度です(家にいて緊張する必要もないのに若干の緊張状態になっているのは無駄ですからね)。

いわば、「仕事の能率を上げるため」というのは次元が低い話なのです。それがいけないとは言いませんが、ただの健康法の延長で終わってしまうのはもったいないですよ、という感じです。

いや、シッダルタはレベルが高いとかそんなことを言ってるんじゃないんです。

「極限まで今に集中し、非想非非想処になろうとも、根本解決にはならない」

そこがキーポイントです。

今の自分の認識がグラつく

ただ、今に集中することによって、今の自分の認識がグラつくはずです。

少なくとも何人にも侵されない領域を体感したはずです。

ある程度今に集中すると何となくじわーっとした体感が来るはずです。

そして

「自動発生している、そしてそれは常に変化している、ただ何かを受け取っているにすぎない、そこに『私』はいない」

そんなことを思うようになるはずです。

今に集中し、集中力を上げれば上げるほど、そうした自動発生している情報の受け取りが少なくなっていきます。

でもそれだけです。

ただしかしながら、「自動発生している情報を受け取っている」という事実を目の当たりにするはずです。

雑念が入るとすれば、その雑念はどこから来たでしょうか?

雑念が入るということは、集中力が低いということにはなりますが、逆に言うと雑念を観察することができます。

「いかに非想非非想処を体得したところで、根本解決にはならない」

それはなぜでしょうか?

それは非想非非想処を解いた瞬間に、次から次へと湧いてくる雑念、意図せず今以外の所に意識が向いてしまう性質から逃れることができないからです。

死がやってきた時に、死を受け入れればそれでいいはずなのに死を恐れます。今起こっていないことに恐怖を覚え、煩います。

どうやら自分が意図としないところで、今現在考えても仕方ないにも関わらず勝手に次から次へと出てくる想念があるようです。

今が過ぎれば、それはもうどこにもないのに、また過ぎたことで煩いが起こります。

今をスタートとすること

過去を今に持ってくると、その過去がこれから起こる今の因果の因になります。

今に集中している時、今以外には意識の向き先はありません。

しかしながら、元々今以外に過去も未来も無いのです。過去や未来は、今自分が作り出しているものです。時間が「存在」しているのではなく、時間という次元を自分が今解釈しているにすぎません。

いわば「過去の経験の記憶」を一つのまとまった情報としましょう。

それは時系列的に経験したという情報でしかありません。これはハードディスクのように考えてみるとわかりやすいかもしれません。

今現在、ハードディスクの中に「過去の経験の記憶」の情報が入っていたとしても、その情報自体には時間はなく、無理やり時間の解釈を入り込ませれば同時に存在しているはずです。

しかしながら、そのデータにアクセスし、何某かファイルを開いたりしてプレーヤーで再生しない限り、いくら情報があっても無いのと同じです。

そのデータが再生されれば、「今」に再生されますが、もしそれら情報にアクセスしなければ、ハードディスク上にデータがあったとしても、無いのと同じです。

スマートフォンの中に入っている画像で考えても良いかもしれません。

画像のデータ自体はありますが、写真閲覧をしない限り、あることにはありますが、今現在は無いのと同じです。

写真を開けば、今現在「ある」ような状態になります。

そんな感じで今現在に過去がやってくるのです。

そして過去が今にやってきて、意図を制限します。

過去の枠組みの中からしか現象が起こりません。

今に集中し、今を基準とする

今に集中すると、アイツこと自我の機能がどんどん弱まります。

およそ雑念は、過去の経験の記憶からしか起こりません。未来についてのことであっても、過去をベースにして未来がこうあって欲しいという渇望のようなことがやってくるはずです。

そしてよくよく考えてみると、そうした意識、雑念の材料は「私」が作り出したものではありません。

本能的な欲求や怒りは両親から得た体に組み込まれたもの、そして、あれこれどうしようと考える材料、比較の基準、設定された目標等々は全て経験の中から教育・洗脳されたものです。

しかしながら、少し変です。

いろいろな考え自体に自分は不在であるのに、自分が「こうしよう」と思ったことは、叶ったり叶わなかったりであるものの、現象として起こっています。

動機としては「腹が減ったから」という体の都合ではありつつも、自分がうどんを食べに行こうと思えば、まれにうどん屋が臨時休業していることはあってもだいたいうどんを食べています。

腹が減らなければ、うどんを食いにすら行かなくても良いはずですが、ひとまず腹が減ったということで、体から嫌な信号がやってきます。

穏やかにしていたのに、不快の信号を与えられ、そして解消してゼロに戻す、たったそれだけです。やっているようでやらされているだけ、だから一切行苦です。

で、根本動機はそのような不快の解消でありつつも、「今度、あのレストランに行ってみよう」というような、今起こっていない「空腹」の怒り以外にも意図が起こり、そしてそれが実現したりしています。

ということは、今の自分の考え方自体は誰かからやってきたような情報のカタマリではありつつも、自分の考えた方向に現実は動いていったりしているようです。

すると「もしかすると、『自分の考え方』自体が変化すると、現実は変わっていくのではないか?」というようなことを思えるようになるはずです。

そして「自分の今の考え方自体は、誰かに設定されたものではありつつも、次には自分の好きな方向に設定することもできるのではないか?」ということも思えるはずです。

ひとまず「今」に集中してみれば、そこにはゼロのような状態があるはずです。

その「ゼロ」をゴールとせずに、スタートにしてみましょう。

「かつてはこの意識が見るものを人に設定されていた、しかし今からは、自分で何を見るかを選んでいけば良いのだ」

そんな感じで行きましょう。


以下、今に集中することについての関連記事です。

全ての思考と感情をストップさせる

今に集中する時、意識の集中のレベルによって、体感にも段階がありますが、途中で変な体感がやってきても、「今そんな変な体感があるだけだ」と考えてください。

とにかく、過去からの連続性や未来への繋がりなどがまったく無くなるレベルにまで、今に意識を向けてみてください。

全ての思考と感情をストップさせるような感じです。

目的か?意志か?

今に集中し、無意識で働く

仕事であれ何であれ、「集中する」ということ自体は、一応幾つかの分類があります。日常の「集中」は、大きく分ければ、それを無意識に保持しておくことと、今現に焦点を当てるということです。

ここで言う無意識を考える際には、「今現に焦点を当てている」という状態が「意識」でそれ以外が無意識だと考えておいてもらった方がわかりやすいかもしれません。

運転していると、たまに意識的に焦点を当てる時もありますが、そのほとんどすべてが無意識で行っているはずです。つまり日常の動作など大半が無意識的な動作になるはずです。

だから仕事も無意識でいいのです。

いわゆる古典教育

分離と過去を通じての「今」

僕の名前は、僕以外の存在のためにあります。

名前によって別け隔て、具体的に限定し、他の何者でもない「それ」であることを示すためにあります。

そしてこの名によって、すべてとの分離が始まりました。

記憶は、過去の情報から成り立っています。

さらにその情報はすべて五感を通じて外界から得てきたものです。

こうした記憶の内側にとどまると、分離し外界からやってきた具体的な情報のまとまりとしてしか成り立っていません。

見るもの選ぶものの方向性も外界によってセッティングされています。そしてすべてであったものから自分だけが欠落しているのです。

名とすべて


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